少し前までとても有名だった、アフルレッド・ヒッチコックという映画監督がいた。彼の作品の一つであまり有名ではないが、「ハリーの災難」というのがある。
主演女優のシャーリー・マックレーンの魅力にとりつかれたとも言えるけれど、この映画は私がもっとも好きな映画の一つだ。
ストーリーはともかくとして、子供連れの独身、マックレーンに好意を寄せる画家の絵が大富豪に売れる。その場面で、大富豪がその絵を手に入れる代わりに「なんでも好きなものを送る」と言う。
画家に促されてマックレーンが「じゃ、イチゴを一箱」という。大富豪はなんでもお金で換算するから「えっ!イチゴでいいの?」という顔をしてそれをメモする。
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秋の一日、素晴らしい紅葉の中で目を覚まし、紅茶を飲む。午後になるとマッフィンと紅茶、そして少しのイチゴをいただく。至福の時だ。
秋の一日、素晴らしい紅葉の中をフェラーリを駆して街道を行く。となりにシャーリーが座っていれば最高だ。
イチゴ一箱3000円。フェラーリ3000万円。「値段」には10000倍の差があるが、その一瞬の人生の価値はどちらとも言えない。
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「値段」というのは、作る側で決める。もし、人間がすべて同じで、すべて同じ価値観、思想、気持ちを持っていれば、値段に応じて価値があるだろう。
でも、「製品」が千差万別のように、人間は一人として同じ人はいない。だから、その人、その人で何が幸福かが決まる。
それは決して、「作る側、売る側」で決まるものではない。3000円と3000万円は売る側で決めた値段であり、買い手は買い手で値段が違うことを忘れてもらっては困る。
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時々、「お宝もの」のテレビを見る。まったく値段のわからない骨董品に「本人評価額」というのと「鑑定人の正しい価格」が示され、その差に一喜一憂する。
味わいのある番組だ。
本人が200万円と数字を掲げる。鑑定人がじっくりとそのお宝を見て、2万5000円!と電光掲示板に数字がでて、会場は大爆笑。
テレビの収録会場にいる全員が、「ああ、価値がなかったのだな。可哀想に」という顔をしている。
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それもそうだが・・・と私は思う。おそらく、そのお宝のお値段は200万円なのだろう。もともと、すでに古い時代に作られたもので、コストがどうとか輸送賃がいくらという問題ではない。そのお宝の価値は人間の心が決める。
1億2000万人の日本人が決めれば2万5000円というのだ。それは鑑定人が言うのだから正しいのだろう。でも、国民全体が決めた値段「本当の値段」ではない。
もう一つの値段の決めかたは「本人が決める」のであり、それは200万円だ。誰がなんと言っても、そのお宝は本人にとっては200万円の価値があるのであり、他の値段ではない。
若い頃、私はこのことを訓練しようとした。本当はレストランにいって「値段を見ないで自分の食べたいものを食べる」の通いのだろうが、貧乏な私にはそれはできなかった。
そこで一計を案じて、電車の切符で訓練をすることにした。
電車に乗ってあるところに行くときには、だいたい190円とか350円という感じはわかる。そこで普通は切符売り場の上にある値段を探して、そのお金を入れる。えーと230円かな?310円かな・・・という感じだ。
その時に値段を探さずに、おおよそ500円を入れて買う。190円でも350円でも、500円を入れる。これもなかなか難しい。
でも、これから行くところは自分にとって190円なら行くのだろうか?それとも1万円の価値があるのだろうか?そう考えて切符を買う。
この訓練がどのぐらいの効果を上げたのかわからないが、私は徐々に「自分の人生で自分にとって価値のあること」が見えてきたのは確かである。
そして、値段は商品につけられている値段ではなく、自分の値段であり、自分の値段が商品につけられている値段より高ければ「買うことができる」と言うことなのだとわかったのである。
「210円でお昼? どんな味なの」と興味本位で食べることはある。でもそれは値段で食べているのではなく、自分の興味で食べる。それはまたそれである。
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この世には「平均的値段」が横行している。また「コスト・パフォーマンス」と言った「心を持たない人間の用語」も使われる。でも、そんなものは関係がない。
つきるところ、愛する人となら手鍋下げても・・・なのである。
人生で不幸なのは、「黄金の手鍋」を買うことができても、「手鍋下げても」と思うことがないことだろう。
(平成21年11月28日 執筆)