ある人がこんなことを言っていました。
「地球温暖化は科学的に不確かなことを、いかにも確かなように社会に錯覚させることに成功した。その点では生物多様性も科学的に不確かだが、宣伝はうまくいっていない」
ここに登場している「生物多様性」というのは、最近、時々、新聞などを賑わしている言葉で、COP10という国際会議が名古屋であるので、それに関連して話されることです。
内容は、少し曖昧なのですが、「人間も人間だけのことを考えずに、多くの生物と一緒に暮らしていかなければ」というような感じです。
時には「生物多様性」というのが「外来種の排斥運動」とつながることがあるのですが、それは一種の悪のりのたぐいで、中心的なことは、あまりに繁殖して自由気ままに地表を占有してきた人間のやり方に対する反省でもあるのです。
でも、このことは口で言うのは簡単なのですが、具体的になにかをしようとすると、損害が伴うので、なかなかうまくいきません。
特に、日本の中でも、また世界でも「地域によって違うことをどうするのか」というとても大きな問題を抱えているからです。
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たとえば、日本には東京のようなすっかり開発された地域と、まだあまり開発されていない地域があります。このような2つの地域では「生物多様性」というと大きな差があって、たとえば、日本のすべてが北海道の北部のような感じなら、もともと生物多様性を守るということの必要性がありません。
世界でも同じことで、世界的にみれば日本はすっかり開発されて、生物多様性という点では劣等国になりましたが、インドネシアやブラジルはまだ豊かな生物多様性が保たれています。
一つの例を挙げてみましょう。
「東京に住んでいる人が「アマゾンを守る運動」をするのは正しいか」
この場合、東京には民主主義が行き渡っていて、東京に住んでいる人の多くが
「今の東京は自分たちが望んで作り、自分は自分の意志で東京に住んでいる」
と思っていることも前提になっています。
つまり、東京のように人口ちょう密で、人間以外の生物がほとんどいない空間は、東京に住んでいる人が自分で選んだ結果と仮定します。
東京には、トラやオオカミのような人間とは一緒に住むことができない猛獣ばかりではなく、シカやウサギのように草原や林があればどこにでもいるような動物もいません。
そればかりか、かつては一緒に住んでいた、スズメ、蚊、ハエなども見られませんし、すっかり舗装された道路にはミミズを見つけることすらできないのです。
つまり東京は生物多様性はありません。
これに比べてアマゾンは豊かな自然が残されています。
もし、東京の人が「生物多様性」を望むなら、なぜアマゾンに移らないのでしょうか? なぜ東京にシカやウサギが住めるように改造しないのでしょうか?
「私は東京に住みたい。それは便利だし、収入は多くとれるし、蚊に刺されることもない。でも、世界のどこかにはアマゾンが欲しい」
ということです。でもアマゾンにも人が住んでいて、その人たちはやはり開発を望んでいます。
東京の人は「自然が豊かなのだから、そのままで住んだら良いじゃないか」と言いますが、アマゾンでは、買い物に行くことも、水洗トイレも、テレビもないし、上下水道も整備されていないので、衛生状態も悪く病気になっても救急車も来てくれません。
今、東京に住んでいる人に「アマゾンに移り住みますか?」と聞けば、100人が100人「東京の方が良い」と言うでしょう。そしてその理由を聞くと、結局のところ「自分の住んでいるところが、生物多様性を持つのはイヤだ」ということになると思います。
人間とは実に身勝手な生物ですし、それが生物そのものとも言えます。だから、人間が自然を尊重し、生き物らしく行動するなら、「生物多様性」はそれに反するのです。
私たちには、綺麗に舗装された道路に囲まれたわずかな緑、それも植物がまるで奴隷のように人間の思うように配置されている公園、そんなものを大げさに「生物多様性」などと言っているように私には思えます。
もう少し、深く正直な議論はできないものでしょうか? その中からもしかすると私たちの将来に対する回答が見つかるかも知れません。
(平成21年11月26日 執筆)