月曜日の11時から放映されているさんまさんの番組で、この前、「不況」というテーマでみんなで楽しく時間を過ごした。
「みんなで」といってもさんまさんはもちろん、ブラックマヨネーズのお二人や磯野さん、それに評論家として出ておられるテレンス・リーさんや早稲田大学の池田清彦先生などベテランの方ばかりなので、番組の収録には安心感もある。
ところで「不況」というと「どうしてお金を儲けるか?」、「生活をどうしようか?」という暗い面ばかりになってしまう。
確かに明日のご飯も心配しなければならない人もいるから、そういう人はみんなで助けなければならないが、普通の人はこういう時には歯を食いしばって生きていかなければならない。
というか、自由主義、資本主義という社会は、言論、職業選択・・・などが自由で気ままな生活ができるし、日本国憲法で「勤労の義務」が定められていても、「ニート」がもてはやされる、ともて気楽な社会だが、一方では厳しさもある。
それは、「かならず不況が時々くるのだから、その時のために「自己責任」で備えをしておかなければならない」ということだ。厳しく言えば「何も考えずに自由だけ享受していたら、餓死することもある」ということになる。
もし、何も考えずに人生を送ろうとしたら、国が何から何まで決める必要があるので、共産国のようになり、おそらく体が丈夫なのに働かないニートは処罰されるだろう。
だから、一見、冷たいようだけれど不況の時に、それまで備えていない人にあまり親切にするのも不適当である。命は助けるとしても、優遇してはいけない。私たちの世界は民主主義なのだから、みんなで「自由」を選択した限りは「備え」はいるからである。
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ところで、不況で一時的にギリギリの生活になるのは「困ること」だけだろうか?
私は番組で、次のようなことを話した。
・・・好景気でお金に余裕のあるときには、あれもこれもつい買ってしまう。だから、本当に何が自分にとって大切なのかがよくわからないが、不況になってどうしても必要なものだけしか買えなくなると、自分が本当になにが欲しかったのかがわかる・・・
そして放送では時間が足りないので発言はできなかったが、そんなときにタンスの中にしまってあった古いものを見つけるチャンスでもある。
二番目に、こう話した。
「あるイギリスの研究機関で1000人の人に自分の人生でなにが大切か、現実の「買い物」の値段と照らし合わせてお金で表現するという調査をした」
お金で人生の大切なものを表現するのは、適当かどうかは判らないが、ただ「大切だ」と言うよりわかりやすいという意味はある。
「第一番は、「健康」で、値段をつければ日本円で2700万円ということになった」
「第二番目は、「愛している」と言われることで、これが2500万円」
と言ったら、健康については異論がなかったが、「愛している」というのには異論がでてきた。
「愛していると言われても、お腹は一杯にならない」
という反論だ。もっともなようだけれど、本当だろうか?
人間が機械ならそうだろう。食事は生きていく上で必要であり、愛は必要がないように思える。
十分な食事があっても、自分を愛してくれる人が一人もいない人生は悲しい。むしろ食事がない方が悲しい人生を早く終わることができて、その方が良いような気がする。
愛をお金で買うのも適当ではないが、もし仮に本当に「愛している」という言葉を2500万円で買えるのなら、それはとても安いように私には感じられる。
年収350万円でギリギリの生活をして、毎年250万円を貯金し、それで10年たったら愛が得られるなら、その10年の苦労はすべて報われるように思われるからだ。
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「愛」というと、家族の愛、友情・・・まずはこれだろう。いつも優しく、無限の愛で包んでくれる家族ほど大切なものはない。人生の宝である。
友との深い信頼、これも欠かせないものだ。中学校時代の友人、近所の友達、そして仕事や趣味で知り合った人・・・その人たちとのかけがえのない時間は私たちの人生を豊かにしてくれる。
家族を裏切ることはできない。それは家族は生涯、離れられないものだからである。でも、でも友は時に裏切ることがある。家族と違って友や知人は目の前からいなくなることも可能だからだ。
私が社会人として働いているときだった。
ある人が私に電話をかけてきて「武田君、彼(私の友人)は主流派から脱落したから、あまりつきあわない方が良いよ」と言った。その人は私を評価してくれていて、本心から親切心で忠告をしてくれたのだった。
「判りました。ありがとうございました」と言って私は電話を切った。
確かに、その時、社内の政治情勢は一変し、それまで主流派で光が当たっていた彼の没落は時間の問題だった。その代わりに台頭してくる人たちもおおよそ見当がついた。
どちらにつくのかが私の勝負の時だった。
結局、私はそれまでの信頼関係を守り、そして彼はほどなくして没落し、私も遅れをとった。もっとも、私がその時に裏切っても別の理由で没落したかも知れない。
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単に愛情といい、友情と言っても、小さいこと大きいこと、いろいろは障害があるものだ。だから、愛と友情が大切と言ってもそれだけでは十分ではない。
「愛」とか「友情」というのは、「自分が得になるから」ではない。むしろ、「犠牲になる」ことである。
相手との関係が順調な時には本当の「愛」や「友情」は生まれない。相手が困難に陥ったとき、相手とともに困難を受けるのが「愛」と「友情」である。
そうだとすれば、彼が主流派にいるときに親しくしていた友情は、友情ではなく、彼が不遇になり、そのとばっちりで自分も貶められようとしている時に、運命をともにするのが友情と呼ぶべきものだろう。
我が子が殺人犯として逮捕された母親が「犯した罪は償って欲しい。でも、私はあの子を愛している」というのが真の家族愛である。もちろん、夫と妻の間も同じ愛情が求められる。
この世は非情である。やがて息子が罪を償うために処刑されるとき、母親は泣く。それでも息子を愛し、自分が生んだこと、育て方が悪かったことを責める。
その点では、比較はできないが、家族の愛より友情の方が崇高で難しいかも知れない。家族との関係は切ることができないから、迷うことはないが、友は選択できる。選択できるが故に、その友情はさらに強固でなければならないだろう。
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仮に幸運にして、深い家族愛と友情に包まれた人生を送ることができたとしよう。おそらく、そのような人生には「不況」という名前は出てこないと、私は思うのだ。
すこし厳しい言い方になるけれど、もし、この不況で「不況だ」と感じることがあれば、それは人生で本当に大切なことから、かなり離れた日常生活を送っているのではないか、自分はなにか大切なものを失ったまま時間を過ごしているのではないか、と思い返すのも良いのではないだろうか。
(平成21年11月22日 執筆)