運転手さんと話が弾んで、何かの拍子に彼が、
「やっぱり、職業というのは、仕事をしっかりやることだね」
と言った。それに触発されて、
「そうね、お客さんの中で「お金を払うんだから、行け」という態度の人と、「運んでくれたのでありがとう」という感じでお金を払う人とどちらが多い?」
と聞くと、
「お金を払うから連れて行けって態度の人は少ないね」
と言う。一安心していたら、
「この前、お客さんが乗る前に、取引の人だと思うんだけど、うまくいっていないんじゃない。ペコペコしていてとても愛想が良かったんだが、相手と別れて乗った途端、ひどい態度だったよ。あれじゃ、商売はうまくいかないのは当然だよ」
私は学生によく「お布施方式」を話したことがある。
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お布施方式の定義
「お金をもらって仕事をするのではなく、仕事をしてお金をもらう」
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人間というのはおもしろいものだ。普段は何気なく生活をしているし、丁寧で、礼儀正しくても、そこは生物だからどうしても「自分が得になるかどうか」を基準にしてしまう。
でも、他人が自分に親切にしてくれたり、注文を出してくれるのは、「相手にとって自分が得になるから」だ。そして人間はどうしても心の中で考えていることが顔に出る。
自分が得をしようとしたら、「他人のために働く」のが第一前提だ。そうすれば、他人は自分に好意を持ってくれて、そのうち、自分が得になることをしてくれる。
第二ステップは、心の底から相手のために働くことだ。これを私は”dedication”と言って、学生に教えてきた。「武田先生のdedication(デディケーション)」と言えば有名で、私の研究室の学生は「耳胼胝(みみたこ・・正しくは「耳にたこができるほど繰り返し聞かされる」ということ)」である。
学生にdedicationを訓練するときには、単位にも関係なく、卒業にも関係のない他の学生の研究の手伝いをさせる。そうすると最初は10人が10人「何で、僕が?」と聞く。そのときに理由は言わない。ただ「やってくれ。頼む」と言う。
学生はそれをしながら、反復して「なぜ、自分がこんなことを」と思っているに違いない。それが、やがて私がdedicatoinと言ったときに、判るのだ。
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「人間なんか、自分勝手なものだ。だから、表面的に相手のためにと言っても、ウソはすぐ判るよ」
というシニカルな人がいるが、人間はそれほど単純なものではない。 長年”dedication, dedication”と唱えて行動をしているといつの間にか、他人のために純粋に行動ができるようになる。
そして、それを体験する瞬間がくる。それは、「なんで、そんなことをするの?」と聞かれたときだ。
普通、ほとんどの人は「自分のため」に行動する。ところが自分が他人のために行動すると、人は不思議に思う。どう見ても本人のためではないのに、苦労してやっている。それをみると「あの人は何が目的でやっているのだろう?」といぶかしく思って、聞いてくるのだ。
そんなときが難しい。Dedicationといっても多くの人は判らないので、「ええ、なにかの弾みで」と答える。
ここでも十分に注意する必要があるのは、人間は「良いことをしている」という気持ちが少しでもあると、それを人に言いたくなる。環境運動などその典型で、マイ箸を首からぶら下げている姿などはそれだ。
イエス・キリストは「良いことは隠れてするものだ」と教えている。「人のために」と言いたいところをグッとこらえる。「あの人はお節介だ」と陰口をたたかれても、それでも言い訳をしない。ここも難しい。
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第一段階、第二段階を卒業すると、自分でも「自分のためにやっているのか、他人のためなのか」が判らなくなる。自分のためといえばそうかも知れないし、人のためと言われればそうも思える。
私の仕事では「自分には全く関係ないことを聞かれる」ことがある。そしてそれを答えるのにかなりの時間と労力、時にはお金を使うことがある。そして答えてもその人とはそれっきりで、なにもメリットはないというケースだ。
今の私は、必ず全力でする。時には相手がびっくりされることもある。この世に「他人のことを自分のことのようにする」という人はそれほど多くないからである。
寝不足の時、他人の仕事のために睡眠時間を削るのは難しい。でも、それこそが人生だと私は思う。
私の人生は私だけでは完成しない。他の多くの人、その人たちは一見、自分には何の関係もないように思うけれどそうではない。どうせ、自分の人生の時間は同じように過ぎる。それを自分のために過ごしても他人のために使っても、それほど違いはない。
さらに、もともと、自分がしていること、そのものもそれほど意味はないのだから。
(平成21年11月19日 執筆)