「文明とはなにか?」

などという大それたテーマを論じようとすると,歴史や文化を専門としている先生方に痛く叩かれる.

「武田は科学者なのに,文明など論じられるかっ!」

と言うわけである。確かに,人間の文明論というのはなかなか難しく,歴史家ならトインビーのような超大物でなければなかなか人前で堂々と言うのは恥ずかしい.

(注)私を叱る人たちのほとんどはヨーロッパで勉強している.(この皮肉はこの文章を終わりまで読むと分かる.)

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ところで,明治維新のあと,

「散切り頭を叩いてみれば,文明開化の音がする」

という歌があった.7775だから都々逸の系列だろう.なかなか味わい深いものである.江戸の文化はしゃれていた.

この「文明開化」という言葉は,かの福澤諭吉が”civilization”という英語の単語を「文明開化」と訳したことに始まっていると言われる。

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ヨーロッパは中世の時代に人間の精神を強く圧迫し,世界でもそれほど「文明」が発達した地域ではなかった.

しかし,イタリアに起こったルネッサンスを契機として精神の解放が始まり,それがキッカケとなって,絵画,音楽,科学,技術などが大きく進展した.

この近世ヨーロッパ文明には見るべきものも多いが,同時に人間の持つ暗部も目立つ.それが,七つの海に乗り出したスペイン,ポルトガル,オランダ,イギリスなどがアジアやアフリカの植民地でやった暴虐である。

その具体的な一つとして,イギリスがインドの発展を阻害するために,インドで紡績機を発明した人の手首を切り落としたことや,イギリス軍に虐殺されたインド人の白骨で「山が白く見える」と言われたことなどを私は書くことがある.

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福澤諭吉が「文明開化」と言ったのはまさにそのことである.

当時のヨーロッパ人は自分たちが裕福になるために植民地や奴隷を作り,生殺与奪の権利を勝手に作って人間を殺害した.

彼は,他人の土地に大砲を持って入り,手首を切り落とすことを,”civilization”と言ったのである.イギリス軍がアジアに進軍して,ある土地を占領し,そこの「野蛮人」に「文明」の光を当てること,それがcivilizationの具体的な内容だ.

福澤諭吉はそれを知っていたかというと,それは微妙だ.というのは,小説家トルストイや,先のトインビーが言っているように「人間は歴史の子」であり,どんな偉人でもその枠を越えることは出来ないからである.

江戸時代から明治の初めの頃に生きた福澤諭吉も,また時代の子であり,目映いヨーロッパの文明を「野蛮」とは思わなかったのである.

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日本のインテリには今でも「手首を切り落とす近世ヨーロッパ文明が真の文明であり,一度も戦争をせず他人を尊重したアイヌの文化を野蛮」と定義している。

その結果,ブッシュ前大統領はウソの理由を構えてイラクに侵入し,フセイン大統領を捉えて処刑した.

アメリカがイラクに侵入した理由は,ブッシュ個人の評判である。彼等,ヨーロッパ人とアメリカはアジア,アフリカ人を人間とは思っていない.

福澤諭吉は「天は人の上に人を作らず」と伝聞のスタイルをとって「文明開化」という本に書いた。彼が、伝聞のスタイルをとったのには理由があったのだろう。

私は中学校の頃,18世紀末のフランス革命を勉強して,「自由,平等,博愛」を知って感激したものだったが,その当時,フランス語を知らない私は先生が教えて下さるまま覚えた。

でも長じてフランス革命で「平等」というのは,フランス語の「白人男性」を対象としていることを知って愕然とした.

そういえばフランスの婦人参政権は1946年で,アジアのトルコの方が早い。フランス革命は必ずしも「平等」を理想とし、もしくは実現することができると思っていたかどうかは不明である。

単に、革命当時の熱気の中で筆の勢いで書いてしまったのかも知れない。むしろその後のフランスの動きを見ても、「能力をつけることによって、人の上に人を作ること」を目指したようにも思われる。

福沢諭吉も迷っていたのだろうか? 「学問を学ぶ」と「偉く」なり、結果として「人の上」に立つ。学問を学ぶこと自体は悪いことではないが、差別(区別)ができるのも確かである。

仮に学問が「人間としての自らの人格を磨くため」なら「人の上」とは無関係だが、「苦学して立派な人間として社会で活躍する」ということになると、いささか考え込まなければならない。

明治19年と思ったが大鳥啓介が東京大学設立に当たって講演しているが、まさに「知の暴力」をつけようという演説だったし、その後の東大の卒業生をみると、一部の立派な人を別にすると、大いに人の上にたって暴力をふるっている。

(注) 偉人に逆らってみるというシリーズを書き始めた動機は私の一つの活動である「世の常識を一度は疑ってみる」ということの一つで、「地球は回っている」とか「人の上に人を作らず」というのはアプリオリ(議論の余地なく最初から)に決まっているように見えて、実は違うのではないかという論理を展開してみようとしている。それにしては論理展開が甘いと反省している。

(平成211026()