第二次世界大戦が終わって,連合軍,特にアメリカ軍を中心とした国が東京裁判を開き,日本の指導者の戦争責任を裁いた.
歴史的に有名なこの事件では,戦勝国として裁判の判事として参加したパール博士の裁判反対論は良く知られている。
「裁判の方向性が予め決定づけられており,判決ありきの茶番劇である。」とした.
このパール判事の行動と考え方について,裁判を開いた連合軍はもちろん,判事を出したインドのネール首相も批判的だった.
ネール首相は,自己の信念を曲げないパール判事に困惑し,
「パール判事の意見書はあくまで一判事の個人的見解であり、インド政府としては同意できない箇所が多々ある」
と言ったと言われる(本心かどうか不明).
その後,1950年代になって日本が独立することになりサンフランシスコ講和条約を結ぶ段になると,インドは参加しない.
その時,ネール首相は次のように言っている。
「日本は謝罪を必要とすることなど我々にはしていない.それ故,インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない.講和条約にも調印しない」
としてインドはサンフランシスコ講和会議には不参加だった.そして1952年にインドと日本の間に二国間の平和条約を締結する.
インドでは,パール判事,ネール首相の他にも,デザイ弁護士が,
「インドの独立は日本のおかげで30年,早まった.この恩は忘れてはならない」
と言っている。
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日本がABCD包囲網に苦しみ,太平洋戦争に突入したことに対する是非はいろいろある.しかし,この戦争がおおくのアジアの人たちを救い,今の世界を形作ったことは言うまでもない.
なにしろ,大航海時代以後,有色人種が白人に戦争で勝ったことはなく,それがほとんどの有色人種の国が白人の植民地になった原因である。
白人は「人格」でアジア諸国を植民地にしたわけではない.力づくだったのだ.
日露戦争でロシアを破ったとき,長くロシアの南下に苦しんできたトルコは喜び,それ以来,トルコ人は日本人のことを忘れずに尊敬してくれる.
そして第二次世界大戦では,日本はイギリスの東洋艦隊を壊滅させ,インドシアにいたフランス,フィリピンにいたアメリカ,インドネシアにいたオランダを追い出した.
日本のしたことが100%良かったなどと言うつもりはない.でも,私たちの祖父母は決して間違ってはいなかった.
パール判事の書簡を読んで,後に絞首刑になった東條英機首相は次のように唱っている。
「百年の 後の世かとぞ 思いしに 今このふみを 眼のあたりに見る」
人間にとって現世の名誉や栄達より,100年後の評価が問題である.東條首相はそう思って眠りにつこうとした.その時にパール判事の書簡を見たのである。
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東條首相のこの潔き魂はどこに行ったのだろうか?国連で白人の拍手を喜び,アジア人を圧迫するCO2放出削減に賛成する人は,もう一度,東條首相が何を言いたかったのか,よくよく考えてもらいたい.
気温の予測は難しい.学説も分かれている。それなのにヨーロッパの後を追うことだけを考えている人たち,まして匿名で批判する人(学力がなければまだ良いが)は,この際,日本人の魂,アジア人の心を思い出して欲しい.
(平成21年9月29日(火) )