明治三十八年一月五日午前十一時,日露戦争の激戦地,二〇三高地を日本軍が奪取して,ロシアの明け渡し式が旅順郊外の「水師営」で行われた。

その時の様子を国民新聞は次のように伝えている。

「ステツセル将軍は参謀長レース大佐及びマルチェンコ、レプレスコイ両中尉を率ゐ他に哥薩克兵護衛として之に従ひ午前十時三十分水師営着乃木将軍は伊地知参謀長角田、安原、松平の三大尉及び川上外務書記官を従へ十一時十五分着、

両将軍の会見は頗る懇篤なるものにしてステツセル将軍口を極めて日本軍隊の勇敢と乃木将軍の不屈不撓の精神を激賞し、又露帝に対する電奏の送達を感謝し、最後に自己及部下将卒に対する日本皇帝陛下の寛大なる待遇を感謝したり。」

この新聞記事に,句読点が少ないのは,もともと日本語には句読点の概念はなく,全部を続けて書くのだが,多くの人が日本語の文章を読むようになって,句読点をつけるようになり,最近ではさらに句読点が増える傾向にある.

それはそれとして,この水師営の会見で,敗軍の将に武器の携帯を認め,厚遇したことに対して,それは当時,国際社会に入ろうとしていた日本の意図的な外交政策であるとか,明治天皇が敵将に敬意を払えとご命令になったとか,史実は複雑である。

戦いが終わった後,敵将に敬意を払う風習は,日本にあることはあったが常にそうだった訳ではない.容赦なく敵将の首を上げ,関係する女子供まで皆殺しにすることを日本の歴史にみることができる.

でも,私は戦いは時の運であり,どちらが正しいかは分からないので,戦いが終わったら「運の悪かった」敵将の奮闘に敬意を払うのもまた立派な文化であり,それを「日本の文化」として育てても良いと思う。

このような風習を大切にしておくと,そのうち「何のために戦ったのかな?」という気分にもなり,それが戦争に一定の歯止めをかける可能性があるとも思うからである.

その点で,勝者が敗者を裁いた東京裁判や,イラクのフセイン大統領を処刑した裁判は醜悪に感じられる。

ところで水師営の会見の後に撮影された有名な写真と,佐々木信綱さんが作詞したこれも特別に有名な水師営の会見の詩(歌になっている)を示した.

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旅順開城 約なりて

敵の将軍 ステッセル

乃木大将と会見の

所はいずこ 水師営

庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木

弾丸あとも いちじるく

くずれ残れる 民屋(みんおく)に

今ぞ相見る 二将軍

(平成21910日 執筆)