歴史的な終末思想と現代社会における環境の終末論は,人間の心の中にある終末に対する恐れ,あるいは屈折した願望として,今後も心理学,社会学の研究対象として解析されることが期待されるが,現実に終末が来るとして何かの行動を取ることには慎重でなければならない.
環境の1990年問題(1990年以後,主要な環境破壊は無くなり,その後,終末論を伴った予防的環境破壊が問題となって来たこと)以後の主要な環境破壊として,廃棄物貯蔵所が満杯になること(社会がゴミだらけになり,生活ができなくなる),ダイオキシンや環境ホルモンでほとんどの人がガンになるか子孫ができなくなる,さらに,地球が温暖化して地獄のような状態になる,が上げられる。
すでに,ゴミの問題(リサイクル)とダイオキシン,環境ホルモンについては,幻想であったことが明らかになっているが,地球温暖化についてはまだ明らかではない.
レイチェル・カーソン,有吉佐和子,そしてシーア・コルボーンの指摘がいずれも終末的であるのに,その解決策を具体的に考えればきわめて簡単であることと同様に,ゴミ箱が一杯になるという問題は,単に「ゴミを,すでに技術的には完成している高性能焼却炉で焼却すればよい」という問題であり,それは人口30万程度の都市で,100億円ぐらいの投資を求めるに過ぎない.
すなわち,一人あたり3万円程度の出費を一度すれば「人類滅亡の危機」が無くなるのだから,人をおどかすのもいい加減にしてくれと言いたくなる。
以上の考察から,終末論と地球温暖化を考察する。
もっとも典型的には,地球温暖化の危機を唱える人の多くが,その発言の最初のところで「このままの状態では,人類は滅亡する。一刻も早い対策が必要だ」とすること,またその場に若い人がいる場合や子供を持つ母親が聞いている場合は「このままにしておくと,あなたたち,またはあなたのお子さんの時代には温暖化でひどいことになる」というものである.
予言者としても有名なドイツの総統であったアドルフ・ヒットラーは,常に「恐怖を伴った未来予言」をしている.そのいくつかは現実のものになったとして評価されているが,多くの予言者と同様に,きわめて饒舌であり,多くのことを述べ,その中で数ヶの確率で合致するものを求めていること,多くの予言は明るい未来を示すのではなく,それが終末に結びつくようなことであるという点で特長が見られる。
明るい未来を示せば,人は安心して何もしなくなり,あるいは個人個人の人生を考えるようになるが,恐怖に彩られた将来を描画すれば,人は集団になり,我が身を犠牲にしたり,お金を出すのを厭わなくなる.それは為政者としてきわめて都合の良いことであり,従って,予言は通常,悲惨な未来を描く。
たとえば,60才以上の年配の集会において,50年後に地球が破壊されるという表現を取ると,それはすでにそこに参集している人には関係の無いことであるが,すでに60才を過ぎて人生の先が見えている人にとっては,悲観的な未来を受け入れることが可能であり,かつ,それはまだな十分に長い人生が残っている人たちへの嫉妬心も手伝って,より受け入れやすいことになる.
「皆さんのお子さんの時代には地球はひどいことになっている.それを防ぐため,人は現在のような自由奔放な生活を止め,昔のような質実剛健な生活に戻らなければならない」という呼びかけは,年配の人にとって実に心地よいことである.
第一に,「子供の時代にはひどいことになるのでそれを防がなければならない」ということでは,自分だけのことではないので,その人の善意や犠牲的精神に訴えることができ,また次世代に対する責任という曖昧だが美しい言葉になる.
第二に「昔の質実剛健の生活に戻る」という内容は,まさに年配の人の願望であり,とくに老人には魅力的である。人間は常に「今頃の若者は,昔に較べてだらしない」という感覚にとらわれるものである.
私はある時に18世紀のフランスの評論を読み,そこに「近頃の若者は,どうにもならなくなった.このままでは・・・」という表現を見て,ほほえましくなったものである.18世紀の後半というと今から200年以上も前であり,その時から若者が「どうしようも無くなった」と言うことは,明治の人もすでにダメになった人であるということになる.
実際には,老人が持つ若者に対する印象には,「自分の若い時代と違う」という時代の変化であり,また生命力に対する嫉妬心も手伝っているのであり,現実に時代が過ぎるごとに若い人が劣化しているとは考えられない.
(平成21年9月9日執筆)