大昔,人間は野山を走り,飛び跳ねているウサギを捕り,たわわに実っている木の実を取って命を繋いでいた.いずれも「人手」で「耕し,育てた」ものではなく自然のものをそのまま頂いていた.
その内,動物の方は「家畜」になり,植物の方は「農耕」になった.いずれも強く自然との関わりがあり,自然の働きに縛られながらも,人間の知恵を発揮した時代だった.
18世紀.イギリスに産業革命が起こり,ジェームスワットが蒸気機関を考案すると社会は一変し,やがて鉄鉱石と石油,石炭を使う文化へと変わっていく。
「工業」の始まりである.
テレビ,冷蔵庫,自動車,携帯電話,電気・・・すべては工業製品である.
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普通の歴史では,「狩猟時代」,「農耕時代」,そして「工業時代」と呼ぶ.時代が変わるごとに活動量は飛躍的に増えるとされている.確かに,自然にできたものを食べる時代に比べて,農耕をすれば生産量は増え,さらに工業は桁が違う。
でも,我々は錯覚してきたようだ.
狩猟も農耕も「自然との関わり」で人間が活動する。ところが「工業」だけは,鉄鉱石,石油,石炭という過去のものとのつきあいであり,現在の自然とは切り離されている。
そして,石油,石炭のある時代はわずか300年ほどであることを考えれば,短命の原料に依存している現代の工業はそれほど長くは続かないだろう。
私が所属する「工学」は二つの罪を犯しているような気がする。
一つが「人を廃人にする作品」を提供することだ.人間は家電製品を使い,自動車に乗り,携帯電話を使ううちに,自分の体は体ではなくなる。人間が生物から無生物に変化していくのを手伝っているようだ。
これをかつて私は「廃人工学」と呼んだ。大学の工学部にいると,おおくの研究者が必死になって人間を廃人にしようと努力しているように見える.
手足の筋肉の代わりになるアキュチュエーター,感覚器官を代えるセンサー,はては人工臓器まで現れている。特に,そのころ東大で「人間機能代替工学」というのをやっていてそれが私に危機感を感じさせた.
工学の二つ目の罪が「自然と切り離された活動」である.
鉄鉱石,石油,石炭の工業は自然のエネルギーの流れに対して約1000倍の量になった.この数字はまったく自然と切り離されていることを示している。
水力発電がダム問題で環境を破壊したのと同じく,バイオマス,太陽電池,風力発電は日本の自然をメチャクチャにするだろう.それは自然と切り離されて生長した工業の論理的結末でもある.
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工学は方向を変える必要があると思う.それは「節約」とか「原始的生活に戻る」というのではなく,まったく新しいコンセプトに基づく,「自然との関係をもった工業」を見いだすことである。
それは「自然からの収奪」ではなく,農耕のように「自然との共存」によるものだ.バイオマスは生物活動を収奪し,日本の野山をはげ山にするだろう.太陽電池は,自然にとってもっとも大切な太陽の光を奪い,絶滅危惧種は一度に打撃をうけて滅びる.
そう・・・現代の工学は,農耕文化からうっかり始めたものであり,まだ200年しか経っていない。そしてそんな工学の産物である「現代工業」は短命に終わるに違いない。
(平成21年7月15日 執筆)