20世紀の中心的課題だった「生産」と,21世紀の課題になるとされている「環境」のもっとも大きな差は,生産が「生産者を主体として考える」と言うことであり,環境は「受け手がわと社会や自然に対する全体的な影響を考慮する」ということである.
すなわち生産の時には,どの程度の「原料,エネルギー,設備,人」を使って製品を作るかということなので,これらをできるだけ節約して製品を作るかが問題である.
原料,エネルギー,設備,そして人が少なくてすめば,生産性も良く,かつ環境に対しても良いのだから,生産と環境の目的は原則として一致する
しかし,環境を受け手側(自然,残存資源量,弱い人など)から見ると,たとえば動物は人間の活動自体でなんかの被害を受けるし,残存資源量という点では原料原単位(1キログラムの製品を作るときに使う原料)やエネルギー原単位が下がると競争力が上がり,その結果,生産活動が盛んになってかえって資源の早期枯渇を招くことになる )。
一見して,製造段階で資源を節約(原料原単位を低く)すれば全体の資源の節約になると考えられるが,これが逆の効果をもたらすことはすでに1972年にMITのメドウスが有名な著書「成長の限界」で指摘している .
この典型的なものが「省エネルギー」である.
省エネルギーが環境に寄与すると考える論拠は,一つの「行為」(クーラーで冷やす,冷蔵庫に保管する,自動車を走らせるなど)に要するエネルギーが少なければ,日本全体,または世界で消費されるエネルギーの総量が少なくなるとうことだ.
この論理は一見して正しいように感じられるが,これもまた20世紀型思考であり,部分しか見ないで全体のことを考えられないことを示している。あるいは,「最後まで論理を立てるだけの根気がない」と評価しても良い.
一つの家庭を考えてみる。その家庭でこれまでクーラーをかなり長く使っていると一ヶ月に4000円の電気代がかかったとする.それを省エネルギー型(電気の消費量が半分)のクーラーに変えると2000円ですむ.
もしその家庭の人の「行為」が「お金によらなければ」電気の消費量は半分になり,さらに日本のすべての家庭が同じ行為をすると,日本全体の電気の消費量は半分になるだろう。
しかし,現代の社会で「お金に関係なく行為を決めている」という人は変人である。
著者などはややその傾向があり,財布を見て行動したのは40才程度までで,それ以後はお金にほぼ関係ない生活をしている.お金があると運動不足になり(車を使う),栄養を取りすぎ(美味しいものはつい食べすぎる),肝臓を壊す(お酒を飲む),傲慢になるが,お金のない生活は,十分な運動,食べ過ぎもなく,肝臓も痛まず,また謙虚になる.だからお金が無い方が良いのだが,社会はそうはいかない.多くの人は「より多くのお金を稼ぎたい」と思って日夜努力しているのだから.
電気代が半分になった家庭は,その2000円をドブに捨てるのではなく,何かに使う.もし2000円が浮いたからドライブに行き,ガソリンを2000円入れたら,基本的にはエネルギーは同じになるか,時によっては多く消費してしまう。この章で述べるが環境負荷を正しく計算すれば,「使用するお金の額と消費するエネルギーや資源量」は同一になるからだ.
クーラーの電気代が半分になると,人はどのような行動をするかはすでに明らかになっている.まだその家に「夏,暑い部屋」があれば,クーラーを2台買うことになるし,すでにどの部屋もクーラーが備え付けられていれば,2台目のテレビを買うなどをする.いずれにしても生活レベルを向上させるために,その余った2000円を使う。
この難しい問題をできるだけ簡単に理解するために,電気代が半分になったから,クーラーを2台買うとする.そうすると電気の消費量は従来と同じで,資源(鉄,銅,プラスチックなど)は2倍使う事になる。
日本全体でもこの傾向は同じであり,さらに世界では発展途上国が大半なので,お金があまりと必ず生産量が増える.
つまり「省エネルギーが環境を改善する」というのは「人々がお金に関係なく生活し,お金が余ったらドブに捨てる」という非現実的なことが前提となっていることが理解されるのである.
18世紀から始まった産業革命とそれに続く科学技術のシンポがもたらしたことは,簡単に言うと省エネルギーと効率化であり,その結果,生産量は数100倍になった.つまり,現代の大量生産時代は「省エネルギ-」によってもたらされたのである.
つまり,環境を考えるときに20世紀的に生産者サイドの「目的」を中心として考えるのと逆の結果すら引き起こすのである.この「トリック」は,主として「引き算トリック」と「ダブルカウント・トリック」,それに「合成の誤謬」にまとめられる.
引き算トリックとは,「何かを削れば,何かが要る」という単純なもので,たとえば,生産の時代には,「レジ袋を削れば,レジ袋を製造するだけの石油が節約される」という論理が成立するが,環境の時代には,「レジ袋を止めれば,そのかわりに専用ゴミ袋とエコバックが要る」ということになり,実質的な石油の節約量は,
(レジ袋の削減量)―(エコバッグ量+専用ゴミ袋量)
という引き算を要する。
また,温暖化によって南極大陸の氷が増えるか,減るかという問題では,
(南極大陸の中央部で降る雪の量)―(大陸の端で融ける量)
の引き算が必要となる。つまり「気温が上がると氷が融ける」という簡単な図式は成立しないということである.
このような差が生じるのは,「生産の時代」ではある企業がバッグを売っている場合,その企業にとっては,レジ袋を有料化すればそれだけバッグが売れるということだけが関心事である。つまり,自分の範囲だけで考えればレジ袋の有料化は売り上げを増やすので「良い」ということになるのだが,「環境」の場合は「行為の主体」の方からではなく,「受け手」の方から考えるので,レジ袋をゴミ袋として使えれば,その方が節約できるということになり,結論は逆転する.
また,「ダブルカウント・トリック」という概念を新しく導入しなければならず,さらに「社会を構成する人の一つ一つの行為が環境を改善しても,その社会全体の環境は悪化する」という現象も見られる.この現象は経済学ですでに経験され,「合成の誤謬」という用語で認識されている。
「ダブルカウント」,「合成の誤謬」についてはまた機会を見て,解説をくわえていきたい。
(平成21年7月5日 執筆)