最近,著作やマスメディアの活動を行っていると,どうしても一つ,理解されにくいところがある.今後,さらに活動を深くしていくためには,なにがポイントなのか?・・・しばらく,考えていた.

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父は明治生まれで数学者だったが,私が父から教わったのは「数学」ではなく,「武士道」だったように思う。

新渡戸稲造の「武士道」に,「武士道は貧困を誇る」とあるが,まさに父に教育されたのは「貧困」だった.

当時,私の家がどの程度,裕福だったのか,子供の私には正確には把握できなかったが,大学教授だったので普通の生活はできただろう。

父は極端に「お金」に接するのをいやがった.そんな父の行動で印象に残っているものが二つある。一つは,「給料を取りに行かない」ということだった.

当時は毎月の給料が現金で本人に渡されていたが,父は大学の出納に給料を取りに行かない。自分の手でお金をさわるのがイヤだったようだ.仕方なく母が取りに行っていたが,恥ずかしかったのだろう。私が小学校4年生ぐらいになると,私が取りに行った.

毎月のことなので,出納の人も私を覚えてくれて,「武田先生のお坊ちゃん」と言うことで給料袋とあめ玉を貰ったものである.

もうひとつ,父はお酒が好きだったから,時々,学生の父母からお酒のお中元やお歳暮が送られてきた.それは時に「ジョニ黒」だったりして,当時の日本では特別に貴重なお酒だった.

でも,父は送られてきたお酒には手を触れなかった.母は仕方なく,出入りの肉屋さんなどに「すみませんね」と言ってあげていた.背広を作りに行くのもイヤで,父が寝ているときに母がそっと洋服屋を呼んで父の体の寸法を測っていたのを覚えている。

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そんな父だったから,私にも「貧乏の大切さ」を徹底的に教えた.小さい頃,私の勉強部屋は,大工でもない父が自分で作った小さな小屋だった.そこで脚の下に電気コンロをおいて寒さに震えながら勉強したものだ.

時々,旅行に連れて行ってくれた.そんな時には「無銭旅行」といって,とにかく切符を買うお金しか持っていかない。途中でお腹が減ろうがのどが渇こうがどうにもならない.水は当時でも何とか公共の水道があったが,弁当は母が握ってくれた2つばかりのおにぎりだけだった.

教育の中心は「貧乏」だったが,義,勇,仁,礼,誠などの徳目も鍛えられた.「訪問するときには必ず,10分前に行って,約束の時間の5分後に戸を叩きなさい」と習い,今でも私は1時間ほど前に約束の場所に行ったりしている。これも幼い頃に受けた教育の結果の一種の「クセ」かも知れない.早めに行かないと落ち着かないのだ.

「誠」も父の教育の中心で,「証文はいらない。口で言ったら,それを守る」ということも徹底して鍛えられた.なにかもめ事になると,父から「クニはなんと言ったのか?」(私の名前は邦彦)と聞かれる。言ったことがすべてで.それに反することは許されなかった.

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長じて,私も大学教授になり,国立大学にいる時に,時々,学生に「国立大学は税金で運営されている.その学生が講義をさぼって,アルバイトをしたらお金の二重取りではないか」という質問をした.

8割の学生は「確かに二重取りだ.これから講義をさぼらないようにしたい」と答えていたが,2割程度の学生は「俺は優れているから国立大学に入ったのだ.だから優遇されるのは当然だ」と答えた.

私は国立大学を出たので,社会にでたらその分だけ恩返しをしなければならないと固く信じていた.でも,「恩返しをしなければならない」と考えるか,「優秀だからお金を貰っても当然」とするか,どちらが正しいかは俄には分からない.

私が「恩返しをしなければ」と思うのは,父の教育を受けてそれが身に浸みているからに他ならない.その判断は感覚的なもので論理ではない.

多くの人がそれぞれ違った少年期,少女期を過ごす。そしてそこでどういう教育を受けるのかで,その人の感覚が決まり,それが「これは正しい,これは間違っている」という判断の根拠になっているような気がする。

すでに私の体質は変わらない.私は昭和生まれであり,明治生まれの父とは違い,お金を自分の手で触ることがある.でも,父が教えてくれた心は変わっていないのだろう。

私の知り合いの「超お金持ち」がある時に,「武田先生はどうにもならない.お金で動かない人ほど困ったものは無い」と言ってくれた。私にとっては大きな賛辞だったが,このことが私の言動が理解されない一つの原因になっているような気がする。

何でもお金の世の中だが,「お金は賤しい」,「お金に触らない」,「貧乏を誇る」という考えもまた正しいように思う。

(平成21630日 執筆)