アメリカのミス・カリフォルニアが全米ミスの審査会で同性同士の結婚について聞かれ,「選択肢があるのは素晴らしいけれど、結婚は男女間ですべきだし、そう育てられた」と発言した.

この発言が問題になり,また,このほかにもいろいろな経過はあったが結局,2009年5月10日,ミスの称号を剥奪された.(AFP通信の記事を元にしています)

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私には「長い間,人間がその中心的な道徳としてきたことを,言論の自由があると考えられる国で発言し,それによって若干でも不利を受ける」ということが,これほど歴然とでたのも少ないように思う。

でも,アメリカは移民でできた新しい国であり,「建国の実験」をしているようなものだ.

アメリカの銃の規制についても,日本でたびたび議論になり,多くの意見は「あんな危ない物を個人個人が自由に持てるなんて」という意見が多い.

ところがアメリカはなかなか銃の規制をしない.それはアメリカという国は「個人の集合体」としての意味が強いからだ.

まず国家があるのではなく,まず個人があり,個人が銃を持って身を守る。だから国家が決められることには限界があるという感覚だ。

著者が経験したこと・・・パリで駐車違反がなぜ取り締まれないのか?・・・と言う私の質問に対して「フランス国土はフランス人のものだから,駐車して国土を占有したからと言って警官が取り締まることはできない」という返事で,当時に私はビックリしたものだ.

よその国を理解するのは難しい.このミスの発言は私にはなにが問題か?と言うことすら理解できない.

確かに性同一症候群といういわば病気(症候群というぐらだから)で苦しんでいる人がいる.だからその人たちを救うシステムを社会が持っていることは当然でもある.

そのことはこの人も十分に配慮して言っていて,さらに「自分としては男女間の結婚がよい」と意見を述べていて,そのような感覚は家庭での生活の中ではぐくまれたと説明している。

でも,現実にはミスの称号を剥奪された.自由を大切にするアメリカの事件だけに考えることは多い。

人間は素朴さから離れると,宙に浮き,すべての判断基準を失う動物のように感じられる.

(平成21611日 執筆)