もともと、自然というものはそこに参加しているあらゆる生物が互いに関係し、依存して生活をすることを前提に作られている。

人間以外の生物、本能で生きる生物は皆、それは判っている。その中でも「共生」ということをもっと前向きに利用しているのがシロアリだ。

シロアリは枯れ木を食べて生きているけれど、自分では枯れ木を栄養にすることができない。つまり、シロアリは「食べられないものを食べる」という不思議な習性をもつ昆虫なのである。

食べられないものを食べればいつもお腹をこわす。それではたまらないのでシロアリは一計を案じて、腸の中に枯れ木を食べる小さい生物を飼うことにした。

人間は草を食べることができないので、家畜としてウシを飼い、ウシに草を食べてもらって、ウシの肉を頂戴する。でもシロアリは家畜を飼うこともできないので、体の中に家畜(微生物)を飼うことになる。

体の中に飼う生物のことを「共生生物」というが、この共生生物はシロアリが食べた枯れ木の主成分のセルロースやリグニンの分解する。

シロアリの腸、特に「後腸」と呼ばれる消化器では、べん毛虫類などの共生生物がシロアリの体重の3分の1もあり、バクテリアも100種類以上いる。

自分で食べるものを自分で消化できないのだから、シロアリはダメな動物だと思う人もいるだろうが、これだけ生物がいるのに「木を食べる」という生物はほとんどいない。「草食動物」という名が示すとおり、草や木の芽を食べるものはいるが木はいない。

そのなかで、シロアリは固い木材に挑戦した。セルローズとリグニンでしっかりと作られた木材をバリバリと噛み砕き、腸に送る。腸では共生生物が待っていて、それを酢酸まで分解する。

共生生物は木材を酢酸まで分解するときにでる栄養で生活し、シロアリは共生生物から酢酸をもらって生活する。

素晴しい! なんでも一人でやろうと思うのは自然界では傲慢だ.

でも、一つ問題がある。それは枯れ木は窒素分が少ないことだ。そこで、早速、シロアリは空気中の窒素を固定する細菌を腸の中に飼う。

ともかく、自分でやれないものは、すぐ応援を求めて、しかもそれを体のなかに取り込むのだからシロアリはすごい。

シロアリの体内の生物もそれほど不満は無い。自分で餌となる枯れ木を探すのは大変だが、それはシロアリが探してセッセと食べてくれる。体内の生物は腸で待っていて餌が来たら食べればよい。そして自分もそれで生き、分解したものをシロアリにあげることで協力できる。 

このようなしくみで生活をしているシロアリとして、日本では「ヤマトシロアリ」や「イエシロアリ」がそうである。

でも、シロアリの腸の中の共生動物が体重の3分の1でよかった。もし、半分以上が共生動物とすると、「シロアリはシロアリなのか?」と真剣に悩むことになるだろう。

もし、半分以上が他の動物なら、シロアリというのは、実は「皮のこと」で、本当は別の生き物ということになるので、少し気持ちが悪い。

人間の腸のなかにも100種類100兆個の細菌がいる。良く知れらたものは「乳酸菌」や「大腸菌」だ。

大腸菌はとかく悪者扱いされるが、もちろん人間と共生しているのだから協力者だ。大腸菌は消化を助けたりビタミンを合成したりしている。もし、大腸菌をとりのぞくと腸の運動(蠕動)がおかしくなり、下痢や腸炎を起こす。

動物や植物がお互いに助け合いながら、また競い合いながら生きているという話は良く聞く。太陽の光で海の中にたくさんの植物性プランクトンが成育し、それを動物性プランクトンが食べる。動物性プランクトンをイワシが食べ、そのイワシを大きな魚が食べる・・・食物連鎖という生命活動もそうだ。

捨てるほうも協力体制が整えられている。

ライオンがアフリカのサバンナでヌーを捕らえる。ライオンが食べた食べ残しをジャッカルが食べ、そのまた残りをハゲワシがつつく。

ジャッカルの食べた後はまだ肉がついているので、もしハゲワシが来なければ腐ってしまうが、ハゲワシは鋭い爪で綺麗に肉をはがす。その後、さらに小さな昆虫も来る。最後の最後は微生物が分解する。すべて完了。

環境は「シェアー(share)」と「ギブ・アンド・テイク(give and take)」だ。

ともかく、まずはシェアーする。一つのものを分け合うことだ。分け合うと損するような気がするが、損はしない。10のものを10人で分けても、一つのものを一人づつ10人がとっても同じだ。でも10人、どのひとも同じではないのでシェアーしたほうがみんなが楽しめる。だから生物はいつもシェアーしている。

そしてギブ。「与える」という意味だ。そうすると今度は相手がギブしてくれる。ギブすると損するような気がするが、損はしない。一つのものを少しギブすると、向うがすこしギブしてくれる。

こちらとしては貰うことになるので「テイク」となる。向うのギブを期待しないでも、かならず自然の摂理はそうなっている。

共に生きるということは「シェアー」と「ギブ・アンド・テイク」だ。森も、川も、平原も人間が独り占めをするのではなく、シェアーし、そこからの恵みをギブ・アンド・テイクすることだ。

水力発電や風力発電も自然のエネルギーを人間が借りるので、シェアーとギブアンドテイクが大切だ。まず、水も風も発電所が独り占めしないで、下流の魚も楽しく生きていけるように考える。

風力発電も「このくらい電気が欲しい」ということで計画するのではなく、「ここの風はこのように使われているから、このくらいは使わせて貰う」という計画に変更する。計画の最初の考え方を変えていく。それとともに、人間の生活の方も見直して、クーラーの要らない街作りをして、水を失って困る魚と痛みを分け合う・・・それがシェアーだ。

そして今度はギブアンドテイク。発電所を作って電気を貰うのだから、魚や森にそれだけのギブをしなければならない。魚の禁漁期間を伸ばしたり、森の面積を増やすことだ。

このようなことは一見して人間の損になるように思うが、そうではない。人間は自然の中に生きていて、自然が壊れれば人間の生きている意味が失われるからだ。

人間同士も同じ。真夏のヒーターのようにいがみ合っていては環境は悪くなるばかり。ここでも気候をシェアーし、自分が涼んだらその分、相手の肩でも揉んであげよう。

でも、人間同士なら、シェアーやギブアンドテイクより、一歩進んで、「デディケーション(dedication)」まで行ってはどうだろう。これは献身という意味だが、そこまでできればやっと人間は万物の長になり、生き物や自然から尊敬されるだろう。。

それなら独りぼっちにはならない。

(平成2142日 執筆)