私は広島を応援している. 教え子が広島にいることもあるが,広島カープという市民球団を持っているだけで尊敬している。
でも,私が広島を応援している最も大きな理由は,原子爆弾投下という人類で最も悲惨な被害を受けたのに,それを克服して発展してきたその努力に対してである.
この写真(広島市女2年一組:原爆投下で全滅)は私たち日本人が決して忘れてはいけない写真の一つだろう.写真に写っている一人一人の人がそれぞれ,人生に希望を持っていたのに,それは一瞬のうちに失った.
自然の災害というなら仕方がないが,人間が意図的に原子爆弾を落としたのだ.人間業ではない.このことだけで私はアメリカを許すことはできない.これを忘れるためには100年では不足で,1000年以上はかかる。
広島市は,その地にアメリカ人を入れてはいけない。 自分の息子や娘を殺した犯人と同じ土地で寝ることは出来ないのだ.
ところで,広島市は長く「原子爆弾廃絶」の運動をしてきている.その努力と意志を高く評価する.でも,私は少し違う。
「原子爆弾廃絶」というのは「願い」である.「願い」は大切だが,実現性が低い。 爆弾で死んだ子供たちに報いるためには,私は「二度と再び,広島に原爆を落とさせない」だろうと思う。
「原子爆弾廃絶」と「広島に原爆を落とさせない」ことと,なにが違うのだろうか? 私は原子爆弾の廃絶は「願い」であり,広島に原爆を落とさせないことは私たちの力で出来る「行為」である.
「願い」を強調することは必要であるが,それだけで終わると大人の責任を果たすことが出来ないのではないだろうか? でも「広島に原爆を落とさせない」ということなら手が届く。
原子爆弾廃絶をするためには,あのアメリカ人を説得しなければならず,それは不可能である。 だから単なる願いだし,厳しく言えば「願いで責任を逃れる」ことにもなる.
でも,広島に原爆を落とさせないということなら,まず第一に,日本が戦争をしなければ良いし,もし日本全体が戦争に巻き込まれても,戦争に関する施設を置かなければ狙われる可能性も低くなる。
広島に原爆が落とされたのは,かつて,広島に大本営があったり,海軍の江田島があったからと言う理由だけではないが,外からそう思われても仕方がないだろう。
日本なら選挙権もあるが,アメリカの大統領を選ぶことは出来ない.広島市民は市長を選ぶことができる.そして,広島市のアメリカ人を入れず,断固として「原爆を使う人を許さない」という意志を示すことは出来るからだ.
これは広島だけのことではない.
今の日本は「願いの時代」であると思う.それは,願いと現実があまりにも差が開いてきたので,大人の意志が弱くなり,願いを現実にするのを止めて,願いだけを唱えているように思う。
(平成21年3月30日 執筆)