上手から強い風が吹いてくる。
その風のエネルギーを100としよう。そこに風力発電所を作って電気を20取り出すと、そのときに熱になって逃げるのが30。そして風下に流れる風のエネルギーは50と半分になる。
風から電気をとっても風の力は変わらないと思う人の方がいると思うが「エネルギー保存則」という原理があって、風のエネルギーを電気に変えれば、その分だけ風はエネルギーを失って弱くなる。
なにか行動して、なんにも影響がないということは無い。人間でも,運動すればお腹が減る。そんなことは大人ならだれでも知っているはずなのだが,「環境」となるとすぐ思考が止まる.
そして、「風力発電は,なぜ環境に良いのですか?」と聞くと,「風は無駄に吹いている」と答える人が多い。でも,本当に、風は無駄に吹いているのだろうか?
風が吹いて、森が繁り、地面が乾き、花粉が飛んで次の命を作り出す。上昇気流にのってトンビが悠々と輪をかき、どんよりと濁っていた空気が夜半の風で吹き飛ばされて、さわやかな朝が訪れる・・・風は自然を形作っている。
木は根を張り、地中から盛んに水を葉に運ぶ。その目的は風で葉から水を蒸発させて生命活動を営んでいるのである。風は植物にとっては生命線だ。
人間も昔は巧みに風を利用していた。
毎日、朝になるとふすまや障子を開け放って箒(ほうき)とハタキで掃除をする。舞い上がったほこりはサッと風が持っていってくれる。夜の間に人いきれで湿りがちになった家の中も、風が心地よく乾燥してくれる。
毎日の生活ばかりではなく、漁村では捕った魚を太陽と風の力で干物にする。山の方では美味しい干瓢(かんぴょう)を作るのには冷たい風が助けになる。
人間も生物も自然の中で生活をしている全てのものが、風を利用している。
でも密閉された空間で生活するようになって、風を利用しなくなるとつい風が無駄に吹いていると思ってしまう。だから、その「無駄な風」を使うのは「自然に優しい」と勘違いしてしまう。
水力発電と風力発電の例は、私たちに次のことを教えてくれる。
「自然のエネルギーを利用するということは、人間には優しいが、自然には厳しい。」
このことは小学生はすぐ納得してくれる.あまりにも当たり前だからだ.
これまで川や風を利用しているもの、たとえば黒部の魚やナイルの穀物にとっては、人間が電気が必要なら石油をもやして発電してもらいたいと思うだろう。
石油を燃やす火力発電所は、動物や植物、地球にとっては「環境に良い」。火力発電所が環境に悪いと感じるのは人間だけの環境を考えたときだけだ。
実は人間は全てのものを自然から借りている。そして人間も自然の一員だから、ジックリ考えれば、「人間に優しい」ということと「自然に優しい」ということは同じはずだ。
この問題はすこし後に整理しよう。その前に、人間と自然ではなく、人間と人間の間の環境問題を少し勉強してみる。
それにはクーラーを考えるのがよい。
夏の暑いときクーラーは助かる。汗でベトベトになりやっと家についてクーラーの効いた部屋に飛び込んだときの快感はたまらない。ヒヤーッとした冷気が気持ちよく汗ばんだ肌を冷やす。
冷蔵庫に冷たい飲み物でも入っていればバンザイ!
クーラーは環境に良いものであることは間違いない。少なくも自分には・・・
クーラーは電気で動く。電気でコンプレッサー(圧縮機)を動かし、高圧の液体を作り、それを一気に蒸発させる。その時に液体が周囲から熱を奪う。熱を奪った液体は温度が下がって気体になり、再び電気のエネルギーを使って高圧の液体に変えられる。
このように、液体が急激に膨張するときに周囲に熱を出すという性質(断熱膨張による冷却)を使って部屋の空気を冷やすのがクーラーだ。でも、部屋の熱を奪うのだから、その熱はどこかに捨てなければならない。
そこで、「室外機」というのを部屋の外に置いて、そこから部屋の中から取った熱を出す。
また、電気を使うので冷やす以上に余計な熱がでる。その熱も一緒に外に捨てる。
だから、室外機からは熱風が吹き出す。都会のように住宅が密集しているところでは、室外機がお隣の窓に向いているときも珍しくない。外は真夏。33℃。そこにお隣さんの室外機から熱風が吹きつけられるのだからたまらない。
別に、お隣さんとケンカしているわけでもないのに、真夏にヒーターを持ち出して、よりによって熱風の噴出し口を我が家の方に向けてくる。一体全体、隣はなにを考えているのだ!腹は立つが、そうかといってケンカをするわけにもいかない。
遂にこちらも財布をはたいてクーラーを買うことになる。二軒が揃ってクーラーをつけ始めたので、その隣もクーラーを買う。かくして町中がクーラーをつけ始め、「熱風かけあい戦争」が起こる。
それだけではすまない。
クーラーは電気を大量に使うので、電力会社は石油を燃やして発電量を増やさなければならなくなった。おまけに、石油を燃やしても、そのエネルギーがすべて電気になるわけではない。
燃やした石油のエネルギーのたった3分の1が電気になり、3部の2は熱となって周囲を暖める。地球が温暖化しているというのにみんなで一所懸命、暖めることになる。
さらに、遠くの発電所から高圧電線で送電し、つづいて高圧電気を定圧に変電して家庭に送る。あれこれロスもあるので、結局のところクーラーに使う電気の10倍の石油を燃やさなければ部屋を冷やすことができない。
まるで、伝染病だ。
一軒のクーラーが、隣のクーラーにうつり、その隣へと伝染する。それが電力会社に感染し、石油を燃やす。
最初にクーラーをつけた人も、その隣の人も、町の人もみんな環境を守ることに熱心な人たちだ。少しでも環境をよくしようと思っている。電力会社も環境にやさしいことを宣伝している。
でもみんなで真夏の町を暑くしている。
実は、「クーラー」という呼び方が間違っている。町の環境や地球からみると「真夏のヒーター」という商品名をつけなければならなかった。
「ジコチュー」という言葉がある。あまり品の良い言葉ではないが、「自己中心」という意味で、他人のことをあまり考えずに、自分だけのことで頭が一杯の人のことを言う。
クーラーを使う人は確実にジコチューだ。なにしろ暑いときに自分だけ涼しくなってお隣にその熱をだすのだから自分勝手も甚だしい。
でも、夏は暑い。だから、百歩譲って、どうしても熱くてたまらないのなら、クーラーをつけても良いとしよう。だけれど「環境に関心がある」「環境に良い生活をしたい」と絶対言ってはいけない。それは、自分の言っていることとやっていることが矛盾する。二重人格だ。
でも、あまりそういって人のことを非難することもできない。著者もクーラー、おっと、真夏のヒーターの恩恵にあずかっている・・・ここに「環境」の本質がある。
よく、「環境を守るために、まず、自分のできることから」と言うことがある。でもそれは環境というものとは全く違う。これまで、人間は少しでも良い生活を目指して努力してきた。
その「良い生活」というのは「自分だけが良い生活をする」ということで、その街や、自分の住む市の全体のことではなかった。まして日本全体でも世界でもない。「良い生活」の中には「他の生物」や「山や川」を入れるほど余裕は無かった。
でも「環境」は違う。環境とは「自分だけが良い生活をする」というのから、「自分はすこし我慢しても、全体が良くなること」に変わることである。
そうなると、第一に、これまでのように「一部」を見るのではなく、「全体」を見ることになる。そうすると、第二に「環境とは一人ではできないこと」ということが判る。みんなでこころを合わせてやらないと意味が無い。
クーラーも自分だけクーラーを止めると、暑くて体が弱る。クーラーを止めるには、まず、夏は簡単な服装でも良いことをみんなで決める。そして家の風通しを良くし、道路は舗装をやめて街路樹を植える。そうすれば町全体の気温が下がるので、我慢ができるようになる。
そして、それでもあまりに暑い日は勉強も仕事もやめよう。みんなで海や山に行って自然の中でゆっくり過ごす。そうすれば日本の電力設備も3分の2ですむ。
こうして初めてクーラーを退治することができる。
(平成21年3月27日 執筆)