時代が進み,「格差」が広がってきた。
日本人が小さい村に住んでいた頃,秋に作物が収穫されると,まず,神様に供え,ご先祖様にご報告をし,五穀豊穣に感謝してから,おもむろにその村の長(おさ)が口にする。
それから順次,収穫を分け,その村の誰もが神に感謝する.人間は動物の一種だから,美味しいところを長(おさ)がとるのは順序というものだが,神様からの授かり物としての作物は,「分ける」.
ところが,邪悪なヨーロッパ文化がアメリカで増殖してさらにその毒性を高め,日本にやってきた.その文化とは「強いものは弱いものに,何をしても良い」という文化だ.
これを「狩猟民族」と結びつけることは出来ない.日本の中のアイヌ民族はまったく正反対で,彼らも狩猟民族だが,神の前に平等で,分ける文化である。 尊敬すべき人たちだ.だから,狩猟か農耕かではなく,魂の邪悪さによる.
「ルーツ」に一つのシーンがある.アフリカで奴隷を拉致してアメリカに運搬する奴隷船が嵐に遭い,積み荷を捨てないと沈没する危険に見舞われる。 奴隷は人間だが物質だ.だから鎖をつけたままの奴隷を海に投げ捨てる。
積み荷を投げ捨てるのと,奴隷を海に突き落とすのは同じことなのだった.
ヨーロッパとアメリカが,300年にわたって人類にしたことは,この一シーンで象徴されている.彼らの基本は「力のあるものが,金で食物を買い,そばに飢えている人がいても,自分の「所有権」を上位に置く」という考え方だ.
人間が人間であるよりも,所有権という権利が上位にあると彼らは考える.それが合法だから,違法には警察が来て,「人間の本来の権利」を主張する人を監獄に入れる.
この行為の矛盾はヨーロッパでも一部,認識されていて,ジャンバルジャンにそのシーンがある.
でも,それは主流ではない.侵略したブッシュ大統領が任期を満了して,アメリカを侵略していないイラクのフセイン大統領が死刑になったのはその一つの現象に過ぎない.
「お金がすべてである」という思想,そして「お金がすべてだという思想を,軍事及び警察権力で守る」という考え方は日本には無い.日本には,それよりも「人間として大切なこと・・・礼,誠,信,義,恩などがある.それを上位に置く。
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お金万能,お金に権力がつき,それを警察と司法が守るという時代が終わりつつある。 時代は,お金万能の資本主義と自由主義から,人間への回帰が期待されているのだ.
それを「仕事とお金」という面から考えていきたい. 最終的な目的は「西山事件はどう考えるべきか」ということだ.
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かつて,日本には「棟梁」という職があった.現在の建築のように「設計」と「施工」が分かれている時代ではなかったし,棟梁には棟梁の威厳があった.
建築の依頼主は,棟梁のところに行って頭を下げ,「建物を建てて欲しい」と頼む。 棟梁は一言,「分かった.お引き受けしよう」という.お金を出すのは依頼者だが,頭を下げるのも依頼者である。
棟梁は「どんな住まいをご希望か?」と聞く.依頼者は建物の形や間取りは言わない.家族のこと,どんな生活をしたいと言うことを棟梁に告げる。 棟梁が聞きたいのは,建物ではない,そこに住む人がどういう人生を送りたいかを知りたいだけである。
そして棟梁は考え込む。 さて,彼の希望する人生をその家で送ってもらうにはどんな家が良いのだろうか? あの地域にすでに建っている建物や自然と調和するのはどうしたら良いだろうか?
さらに棟梁は考え込む。 「今」が続くわけではない.口には出しにくいが,彼もそのうちには老人になるだろう.その時には重たいものは持てないし,急な階段は難儀になるに違いない.でも,最初はそうは思わないだろう.さて・・・・
お金を出すのは依頼者だが,仕事はそれとは全く関係なく棟梁が一から十まで行う.依頼主が希望しているのは「どういう家」ではなく,「どういう人生」なのだ.
(平成21年3月25日 執筆)