日本人は「指導者がまとも」なら,「普通に安心して人生を送れるはずだ」ということをシリーズで考えていきたいと思います。 今回は第二回で,「学問の義務」について話します。
恐れ多くも日本国憲法には,第二十三条で「学問の自由は、これを保障する。」と明記してくれています。
学問の自由とは学問をする人が,自由に研究するテーマを選び,その結果を発表することが出来る権利で,憲法で保障されていますから,それによって社会的な不利を受けたり,まして投獄されたりしないという権利です。
事実,私が政府の方針と反して,「リサイクルは環境を汚す」,「ダイオキシンの毒性は低い」,「温暖化しても日本は良いことばかり」と発言できるのは,私が環境と言うテーマを自由に選ぶことが出来,その研究結果をそのまま公表できるからです.
とても社会に感謝しています。 もし学問の自由がなければ,私は環境を研究するときに政府の許可を求め,さらにその結果を発表するときに,お役人に申請しなければならないでしょう。
そんな社会なら,ゼッタイに発表できなかったと思います.戦前の日本にも学者が迫害を受けることがありましたが,ヒットラーのナチスでは「ゲルマン民族は優れている」という論文でなければ出せませんでしたし,スターリンのロシアでは「共産主義のもとなら良い植物が出来る」という実験結果を出さなければ反体制派と言うことでシベリアの監獄行きになりました.現在の日本ではよほどの覚悟が無ければ「温暖化は怖くない」と発表できませんが,ややヒットラーと似ています。
確かに,今の日本でも私が「リサイクルは資源を余計に使う」とか「ツバルは海面上昇で沈んでいるのではない」と発表すると,「教授を辞めさせてやる」などという脅迫を受けたり,匿名で執筆するウィキペディアなどでいわれのない批判を受けるのですが,もし大学の先生が,いつも政府や社会の反応の方を見ている人だけで学生がすくすくと成長することは出来ません.
何にもとらわれず,学問の命ずるままに自由な心で学生に接し,学生の成長だけを楽しみにして生活する人が,大学では教授と呼ばれなければならない・・・それは大学人の共通した気持ちなのです。
先日,教え子の結婚式に横浜に行ってきました.教え子の結婚式ほど私にとっての楽しみはありません.あのやんちゃだった学生が,真面目な顔をしてお嫁さんの横に住んでいるのですから,何とも言えない気持ちなのです。
学生と私の間は,彼が大学生の時にはそれほど平穏無事だったわけではありません.学生は学生としての理屈があり,私は「卒業までにはここまでは成長させたい」という気持ちを持っているので,いわば戦いの部分もあるのです.学生にとって「成長する」というのは苦痛なのです。
でも,そんな学生も卒業して就職し,立派になって披露宴の中心に座っていると,私は思わずほろっとしてしまいます。
そんな恵まれた人生を送っている私ですが,それは学問の自由があるからで,もし無ければ,私は抑圧された生活を送るでしょう。
でも,学問の自由という権利を持っている私は,それを与えてくれた社会に対して恩があります.欧米文化では「権利と義務」ということになるでしょうが,私は日本流に「恩」と呼びたいと思います.
それでは「学問の義務」とはなんでしょうか? それは自由に研究させて貰ったお礼に「研究結果は自分にも他人にも配慮せずに,そのまま発表する」ということです.もちろん,個人を非難したりしてはいけませんが,科学的なことはすべて制限せずに発表する義務があります。
これは「報道の自由」を元に取材した記者が,「知り得た知識をすべて伝える」ことが求められるのと同じです.取材した記者が「これは政府に怒られる」と遠慮したら,何のために社会がその記者に自由を与えたのか分からないからです。
とかく権力者が社会を自分の自由にしたがるものです.税金は国民のお金なのに,4000万円の使ってイタリアに遊びに行くなどがそれです.そのようなことがあるので,取材の自由,表現の自由,学問の自由などを認めて,そこから「事実」が常に暴露されていくことを期待しているのです。
私は自分の研究を通じて「リサイクルは資源を3倍以上使う」という結論に達しましたので,発表しています。そして理論計算,実地調査,全体の動向を調べ,それを確認しました.だから,私は異なる状況になるまで,その結果を変えることは出来ません。
私は,和田先生はじめとした専門家の論文を精読し「ダイオキシンの毒性は弱い」と結論し,地球物理学や生物学者の論文を読んで「温暖化は日本では良いことばかり」と結論しました.
物理化学を専攻している私にとっては,材料系は私の研究分野ですが,研究を進める上には,ダイオキシンなどの毒物や地球の気温などはきわめて大切で,理解しないで研究を続けることは出来ないからです。
ところで学者がゼッタイにしてはいけない,もう一つのことがあります.それは「自分の恐れ,希望」などを調査や結果に入れてはいけないと言うことです.私にもいろいろな恐れや希望,予想やメンツがあります.でも,それは学者には許されないのです。
一度,「ダイオキシンは猛毒だ」と言ったので,その後の研究で毒性が弱いとわかっても「猛毒だ」と言い続けるのはダメです.私たちは常に事実に忠実でなければならず,事実の重みは自分の人生より重いからです。
「自然の中で暮らしたい」という人がいます.私もそうです。そしてそれには「大量生産」は良くないことかも知れません.でも事実が「大量生産は環境を改善する」という事実があれば,いかに自分の直感と違っていても,それをそのまま発表します.そこに「自分の価値観」を入れてはいけない,それが学者の不文律であり,学問の義務です。
(平成21年3月1日 執筆)