かつて「産業界」とは「商人」であり,「証券会社」は「株屋」であった.彼らは天下国家などは関係なく,生産力を高めて国を繁栄させることにも無関係で,ただひたすら自分のもうけだけを追求すれば良かった。
もちろん,商人道があり,株屋道があったが,それは天下国家とは無関係であり,まして「科学」などという領域に介入することはなかった.
しかし,今は経団連の首脳が政府の審議会に顔を出し,大いに天下国家を論じている。 また,株屋は長じて金融を握り,人間活動の補助的手段でしかなかった貨幣が生活自体を支配するようになった.
私も若い頃,産業界に身を置いていたが,1980年代には「企業の社会的責任」の教育を厳しく教えられた.高度成長後に余裕の出た日本の企業の正しい方向だったと思われる。
しかし,社会は一層,厳しくなると,また産業界は商人になり,短期的な収益のみを追求するようになり,日銀総裁が金融ファンドを応援して,私費でファンドの債券を購入して巨利を得る時代になる.
次から次へと新しい自体が展開し,新聞やテレビ,それに学会まで変化について行くには議論が大幅に不足するようになる.一つ一つがあまりに大きな問題で,それを処理するところまでには日本社会が成熟していないからだ.
日銀総裁が自分が応援するファンドの債権を購入して,巨利を得ても職務倫理に反さないのか? アメリカはなぜ北朝鮮の動きに興味があるのか? なぜ,電気自動車が温暖化防止に役立つのか? どれもこれも未解決のまま,社会は進んでいく。
日本はアメリカに製品を売りながら生活をしても良いのか? 政府を小さくしないで消費税を増税するのは正しいのか? リニアー新幹線を敷設するのは環境破壊とどういう関係にあるのか? すべては闇の中である。
未解決な問題が増えるとともに,「議論や論理を大切にしないで,決めつけて話を終わりにする」という,非常に危険な風潮がさらに高くなる。
私に関係することと言えば,「武田は信じちゃいけない」とか「武田の論理は飛躍している」というような短絡した論評である.もちろん,異論があるのは結構なことだが,異論というのは具体的にその論拠を示さなければならない.
たとえば,私の言っていることは宗教ではないから,科学的事実はどうなのか,それをどのように解析するのかが問題である.また論理が飛躍しているかどうかは「論理が飛躍している」と言ってもダメで,「どこの論理が飛躍している」と示さなければならない.
最近,PHPが「武田邦彦はウソをついているのか」というタイトルを付けたときに,私に了解を得るために連絡をしてきた.私はOKしたが,それは私がウソをついているわけではなく,このぐらいの批判をされても,議論が進むことを優先するのが大切だと考えたからだ.
日本人もそろそろ感情から出発して結論に至るのではなく,事実から論理を経て結論に至るようなルートも併用したらどうだろうか?
そして産業界も金融界も,天下国家を論じるなら,個別の収益とは離れた思考と行動が求められるだろう。
(平成21年2月22日 執筆)