北京オリンピック、柔道女子63キロクラスで谷本が、どうみても谷本よりガッシリしている仇敵を一本で畳に叩きつけたとき、私も思わず「やった!」と喜び、表彰式では年甲斐もなく感激した。

 技も見事だったが、彼女のさわやかな笑顔がまた一段とオリンピック会場には映えた。その日、何回、その瞬間を見ただろうか?何回か繰り返し見ても、もう少しよいアングルで映してくれないかと歯がゆく思ったものだ。

 そんな谷本に感激する自分と、何か違和感を感じる自分が日を経つごとに少しずつ心の中で葛藤する。それは「この種目はオリンピック種目になって以来、ずっとメダルを取り続けています。選手はプレッシャー・・・」というようなキャスターの話がブラウン管から繰り返されるとさらに強くなった。

 人生の送り方は2種類あると思う。一つが「目標型」、一つは「行為型」である。

 日本人は、目標型の人生を小学校の時から習い続ける。

「大きくなったら、君は何になるの?」、「次の試験では一番をとりなさい」という具合だ。最初は夢物語だったそんなことも、次第次第に現実味を帯びてきて、高等学校受験や甲子園のようになると、ますます重く自分にのしかかってくる。

 確かに目標は励みにもなり、元来、サボりの性質がある自分を叱咤激励することにもなる。だから、ほとんどの人が「目標を持つことは良いことだ」、「立派になりなさい」と言う。

 でも、本当だろうか?というより、経験を重ねればかさねるほど、「目標を持つこと」が「間違っている」という確信に変わってきた。

「人生には目標はいらない。行為に感謝の心だけだ」と今の私は信じている。そして、そういう生活をしてもう20年ほどになる。

 「行為に感謝する」というのをオリンピックに当てはめて見よう。

 柔道ができる、そのことだけで十分に人生を送る価値がある。柔道というのは実にさわやかで厳しい武道であり、正月の行事から始まって道場で行われる一つ一つのことが、楽しみでもあり、自分を鍛えていく力にもなる。

 受け身、乱取り、寒稽古・・・そんな機会を得た人生は幸せだ。

 毎日の稽古という「行為」を必死でやっていて、たまたま体が強く、けがをせず、運動神経があり、そして運が良ければ県大会で勝ち、あるいは全日本をとることもあるだろう。

 でも、県大会で負けても、全日本選手権にでることができなくても、柔道という「行為」をすることができたという価値は何も変わらない。勝負は結果であり、人生の豊かさを決めるのは勝負ではなく、柔道を練習するという行為そのものである。

 才能豊かな人が、身体と運勢に恵まれ、4年に一度のオリンピックで金メダルをとったとする。それは輝かしいことであり、すばらしいことだが、金メダルというのは「向こうから来たもの、優勝したその人には関係が無いもの」である。

 「試合に臨んで何を考えますか?」という問いには「自分の柔道をしたいと思います」が正しい。多くの選手はそう思っているのだが、国民の期待、周囲の人の望み、それを考えて「メダルを狙います」と言う。選手の優しい心が感じられるが、選手にそう言わせる社会は、良い社会ではない。

 人生には目標はない。強いて言えば死ぬことぐらいだろう。人間はやがて死ぬ。中国を統一し、その最初の天子となった秦の始皇帝でも、今は生きていない。彼が必死になって「不老不死の薬」を求めたのはよくわかる。それは彼に目標があったからだ。

 目標のある人生は空虚だ。私はそれを次のように書いたことがある。

 家を出て駅まで16分の道のりを歩いて通勤する。それは遠く辛い道のりだ。なぜなら、「駅に到着する」というのが目標だからだ。でも会社に行くのだから、それは仕方がない。

 家を出て10分ほどのところにあるお堀に行って桜をみて、またぶらぶらと散歩しながら返って来る。往復20分の道のりは短い。もう少し歩きたいと思う。それは「桜」という目標を求めたものではなく、「歩く」という行為に心が向いているからである。

 私がそのことに気がついたのは若い頃だったが、生活の中で完全にそれを活かせる極意を会得したのは20年ほど前だった。それからの私の人生は実に楽なものになった。

 いつも、全力を尽くす。それはオリンピックに出る選手が全力で練習をし、全力で試合に臨むのと同じだ。

 でも、結果は頭にはない。桜を見に行くというボヤッとした行き先はあるけれど、お堀について桜が散っていてもガッカリはしない。「歩いてそこに行く」という行為自体が問題ななのである。

 研究をする。研究が成功し、世間の脚光を浴びるのが悪いかと言われると、良い。でも、それは研究の結果であって、自分が求めるものではない。私ができるのは「一所懸命、研究をする」ということであり、それ自体が私の人生だ。

 辛い仕事をしなければ生活ができないことはしばしばである。自分を屈し、イヤな相手を持ち上げ、時にはその人を利することすらしなければならない。家に帰って一人、憤然とすることもある。でも、「辛い仕事」自身が私の人生の時であり、それが一番、貴重だ。

 辛い仕事の先に何があるか、それを考えても人生は変わらない。必要なことはやる。そしてそれが辛くても、今日一日が無事に終わったことを感謝して床につく。その積み重ねが人生を幸福にするのだ。

 オリンピック選手、君はメダルを狙ってはいけない。君がオリンピックですることはスポーツであって、メダルではない。金メダルだろうが、予選敗退だろうが、君がオリンピックでスポーツをしてこれば国民も後援会も満足する。

 成果主義のマスメディアに惑わされて、君の人生を失ってはいけない。

(平成20820日 執筆)