研究室の学生に私は三つのことを教える。

「大学を卒業して産業界に入り、仕事をしているうちには必ず「お金か、自分の人生をかけた魂か」が問われることがある。そのときには必ず魂を取ってもらいたい、現在の日本が繁栄しているのは、我々の祖先が魂を選択してきたからだ」

 私はその一例としてペットボトルのリサイクルを上げる。卑近な例だが学生には一番、わかりやすい。

 「昔、お茶碗職人は概して裕福ではなく、毎日、轆轤を回してお茶碗を作る。そしてそれを新聞紙にくるんで「大切に使ってください」といってお客さんに渡す。

 一方、同じ「容器」のペットボトルは素晴らしいものだ。落としても割れない、鉛筆ぐらいで突いても穴があかない、お醤油でも油でもお茶でも入れることができるし、500ミリリットルのボトルはわずか30グラムぐらいでできる。古今東西、このように素晴らしい容器は見たこともない。

 そして、ペットボトルの製造会社の社長は年収3000万、一流大学出なのに、自分が作った素晴らしい容器をお客さんになんとか一回で捨てさせ、販売量を上げようとしている。それがペットボトルのリサイクル・システムだ。

確かに、みんながペットボトルをお茶碗のように、大切に何回も使ったら会社はつぶれるだろう。そこが問題だ。つまり、お金と魂が試されているのだから、会社がつぶれても「私が作ったものを大切に使ってください」と呼びかけるそれが「魂の選択」なのだ。

人生ではお金は大した意味はない。毎日の生活はお金で動くから、何となくお金が大切のように錯覚してしまうが、長い人生では、実はお金は幸福を与えない。むしろ不幸になることはあるが、心豊かな生活は望めない・・・」

 人生の経験の浅い学生にはわかりにくい話だが、何かの時に私の言葉を思い出してくれればと願って私は語る。

 残りの二つは、「デディケーション」と「偉くなるほど偉くなれ」である。

 デディケーションは「また先生のデディケーションか」と学生があきれるほどのものだ。「自分に関係のない仕事を言いつけられた時こそ、まるで自分の仕事のように一所懸命やりなさい」と繰り返し私に言われる。

 最初は、「こんなことは俺に関係がない」という態度で過ごすと、私にコッピドク怒られる。「どうせ、我々は社会でそれほど貴重な存在ではない!せめて他人の仕事ができるのなら、それに一所懸命になれ!」と怒鳴られる。

 最後に「偉くなるほど偉くなれ」ということを少し解説しておきたい。

 大学は勉強して学生が立派になることを目指している。立派になるということは平均して社会的にも偉くなる。そして自分がもし社会的に偉くなったら、人格的にも偉くならなければならない。

待ち合わせ時間であれば、普通の人が10分前に来るなら、君は30分まえに行きなさい・・・というわけだ。

 人間は知恵がつくとズルをするようになる。身に付いた知恵を自分の身を守るために使う。それが人間の中に潜む動物性だが、人間が人間としての尊厳を保つということは「知恵をズルに使わない」ということだ。

 学生にとってはやっかいな先生だっただろう。今になって間に合わないかもしれないが、すまない、謝る。

(平成2068日 執筆)