人間の頭は「欲望と恐怖」に基づく「幻想と錯覚」に満ちているので、「事実」を探求するための学問は感情を抑えて現実を見るための方法を用意している。
その一つが、事実を確かめるために「複数の方法」でアプローチをすることだ。この「複数」というのに意味があって、それが「欲望と恐怖」によって生じる「幻想と錯覚」の存在を示してくれる。
たとえば「二酸化炭素が増えると気温はどのぐらい上がるか?」という問いに対して、
1) 原理的に考える
2) 直接的な事実を整理する
3) 関連した知見と結論が矛盾しないかを調べる
という手段をとる。
これに加えて「議論と批判」である。私の経験でも「絶対に確か」と思ったことが議論や批判で覆されることがある。だから「議論と批判」は学問にとって非常に大切なのだ。
そして学問は「自分の名誉」とは違う。あくまでも事実を追うので、自分が間違ったら修正する。それが名誉を傷つけようと、それより事実を追う情熱が勝たなければ学問というものはできない。
つまり常に自分を捨てて事実に忠実になる覚悟が求められる。新しいことを探求する人の必須要件だろう。
まず、温暖化について原理的に考えてみると、太陽の光で地球に入ってくる熱と、地球から宇宙空間に出る熱は同じ量だから、黒体放射の理論から地表約6キロメートルの上空の温度はマイナス23℃付近であると推定される。
地表約6キロメートルでマイナス23℃の時に、地表の温度は大気の組成、水蒸気の量、温暖化ガスの量で温度の傾きが変化する。最低でマイナス10℃ぐらい、最高でプラス35℃ぐらいと推定される。
まず原理的に考えたときの地表気温はこのようになる。もちろん、一部の解説にあるように「二酸化炭素などの温暖化ガスが上空で「層」をなして、まるで毛布をかぶったように熱を逃がさないようにしている」などという説明は、わかりやすさを求めたのだろうけれど、間違いである。
このような間違った説明図を長い間、掲載していることはまずいので、早期に訂正する必要がある。まずはこれが第一点である。つまり、「誤解を招きやすい表現や図」は難しい問題の時には使わない方が良い。もともと人間の頭で考えるギリギリのことに挑戦しようとしているので、間違いが入ると混乱するのだ。
第二点は、もともと二酸化炭素は分子量が44もあるから、空気の平均的な分子量(分子量が28のチッソ79%と分子量が32の酸素が21%)は29ぐらいだから、二酸化炭素は重く、容易には上空に行かない。
でも気流の動きや拡散によって徐々に均一になっていくけれど、それがどの程度の時間なのかという基本的なことも解説しておくことが必要である。「計算したらこうなった」というのは説明にはならない。その中でいろいろな仮定をしているだろうから、それを一つ一つ、説明しておくことだ。
二酸化炭素の44に対して水は分子量が18だから軽く、地表で蒸発すると直ちに上空に行く。液体の水が蒸発するときに約500℃分の蒸発熱を奪い、上空で凝縮して熱を発する。この効果で常に地表は冷やされている。
人間が地表で二酸化炭素を出したとき、それが低空に滞留し、地表から宇宙へ放射する熱(長波長電磁波)を一部だけ吸収し、温度が上がった地表から水の蒸発量が増加して熱循環が増す・・・この単純なモデル計算はまだ日本の普通の人が確認することが出来る形で公表されていない。
もともと地表の気温が安定している理由の一つに、水の循環がある。最近の都市ではビルやアスファルトで覆われて水の循環がスムースに行かないことも都市の気候を不安定にしている一つの理由である。
だから、温暖化の問題でまず、国立環境研究所、気象庁などの温暖化の研究者は基本的なことの研究を整理した方が良いだろう。その理由は、まさに気象研究者によってもたらされる情報で、国民が不安になり、かつ多くの税金を払おうとしているからだ。
ある時にFMラジオで放送していたら、男子高校生から「温暖化阻止に協力するために冷房温度を28℃にしているけれど、暑くて勉強が見に入らない」という電話があった。
また、あるお母さんからメールがあり、温暖化で将来を悲観していて、二人の子供を育てる勇気を持てないという深刻な話もあった。お金だけではなく、温暖化の問題は日本人の生活や心に大きな影響を与えている。
そのことを温暖化の研究者は知っているだろうか?「研究費が欲しい」という潜在的な意識で過度に温暖化の悪影響を強調していないだろうか?私たち専門家は「事実」を知ることの難しさを知っている。それなのにあたかも事実が明確にわかっているように情報を発信していないだろうか?
現在、学者や専門家の間で温暖化の効果について議論が続き、いわば「紛糾」していることの第一の理由は、中心的に研究予算を使っている国立環境研究所などが、「学問的にどのように考えているか」という「基礎的な考え方」を明確に示していないことである。
特に、学問的な議論をしている学者に対して「温暖化懐疑派」という変な名前をつけたのは実に大きな問題である。私も10年前、ある学会で「プラスチックのリサイクルは余計に石油を使う可能性がある」という研究結果を発表したら「売国奴!」と会場から声がかかった。
自由な研究と批判、それこそが大切なのは学問の長い歴史が示している。それを「売国奴」とか「温暖化懐疑派」というようなレッテルを貼るのは、本当に品位が低いと言わざるを得ない。
「二酸化炭素と水の分子量の効果、水の蒸発量の増加と熱循環に対して、シミュレーションはどのように仮定をおいているのか?」という単純な疑問を出すのは、当然であり、その人達を「懐疑派」とするなら、日本は学問の総てを放棄して、政治かお金儲けの仕事だけをすればよいのである。
学問は「同じ専門家にはその正しさが十分に理解できる」という発表をして、はじめて発表になる。だから学問の世界は「論争」はそれほど長くは続かない。温暖化の問題がいつまでもケリがつかないのは、学問を装って発表される研究結果が政治的な衣を着ているからである。
この問題はさらに続いて執筆する予定である。科学技術立国と言われる日本がいい加減な学問的根拠で大きな判断をするのは適当ではない。そして、もう一つ考えて貰いたいことは「国立環境研究所」のように「国立」と「研究所」という名前が付いているところは「学問」をするところなのか、それとも「政治の場」なのかをハッキリして欲しいということだ。
もし学問をするところなら、学問の方法を尊重しなければならない。それはとりもなおさず、前提をしっかりして説明を行い、疑問や批判に対して真摯に答え、決して疑問を呈した人を「売国奴」「懐疑派」などと呼ばないということだ。
(平成20年5月28日 執筆。29日加筆)