2007331日、山陽新聞夕刊7面に高阪 剛さんという格闘技の方が話された記事が載っていた。

 

「私は本当の“技”とは、自分にとってつらいものや、行うことが困難な作業を、何回も、何年も続けることによって、本人なりに自分にしかできないものに変化させていったその先にあるものだと思っています。」

 

 私は体を動かすのが好きだから、スポーツ界の方とも親交があったが、この方の言われていることに近い内容を、プロレスやテニスの方からよく聞いたものである。

 

 そのたびに、スポーツ選手と学問をする人とまったく同じ感じを持っていることに驚いたものである。学問も「イヤなこと、辛いこと」に正面からぶつからないと結果は得られない。

 

 その理由は学問が「判っていないこと」を探求するのが仕事だからだ。人間は今が正しいと思う。でもそれを覆すのだから、精神的な負担が大きい。

 

 それが何年も続く。

 

 真実というのはそれほど容易に手に入るものではない。人間は「利己と錯覚」のとりこであり、「恐怖と欲望」で支配されている。だから、それを克服して真実を見るのは実に難しいのである。

 

 最近、環境のことを研究していると、日本とドイツぐらいしかやっていないリサイクルは言うに及ばず、先進国が取り組んでいる温暖化ですら、到底、その域に達していない。というよりもむしろその道の専門家が、辛いことイヤなことを避けているようにすら見える。

 

 勝負は力のあるものが勝つ。だから修行を積んだ格闘家はかならずや勝利を得るだろう。でも、学問はそれより少し長い時間を要するように思われる。真実を発見した人はその生涯の中では認められず、報われないのが歴史だった。

 

 それでも、自らの技が切れたとき、そして事実を解明できたとき、そんな瞬間はそれまでの辛さが一辺に吹き飛ぶ時でもある。

 

(平成2041日 旅先にて)