まだ、「森林は二酸化炭素を吸収する」と子供に教えている人がいる。大人にウソを言ってよいと言うことはないけれど、大人は聞いたことをストレートには受け取らないが、子供はストレートに受け取る。
「森林は二酸化炭素を吸収する」と言えば、子供は「森林というのは」、「二酸化炭素を吸収するのだ」と理解する。
でも利権をあさっている人は別にして、真面目な人で森林が二酸化炭素を吸収するといっているのは、現代の社会が「いい加減な言い方」を認めているので、それに影響されているのだ。
木は生長するときに二酸化炭素を吸収して自分の体をつくり、やがて土に帰るときに体は微生物が分解して、同じ量の二酸化炭素を出す。だから「木」は「二酸化炭素を吸収しない」。
もし、吸収するというなら「木が生長する時だけは、二酸化炭素を吸収する」と言わなければならない。でも、普通は「成長する時だけ」という断りは書いていない。
「質量保存則」という厳密な物理の法則がある。木が二酸化炭素を吸収すれば、炭素は木の体になり、酸素は空中に放出される。だから木が二酸化炭素を吸収した量は、「木の体」になるか「木が自分が生きるために使ったもの」の合計である。
木が自分の為に使ったものは、空気中の酸素と結合してまったく同じ量だけ二酸化炭素になるから、これはプラスマイナスゼロである。
木の体になったものはやがて分解されて同じ量の二酸化炭素になるので、木の一生を見ると「二酸化炭素は吸収しない」ということになる。
私は教師なので、子供に教えるときには「正しく教える」。子供に「一所懸命、勉強しなさい」というのは、私が「正しいことを教えるから」というのが前提だ。だから、「木はその一生を見ると、二酸化炭素を吸収しない。ただ、成長するときだけは吸収する」と言う。
特に、100年が問題となる環境問題のテーマとして説明するときには、「木は二酸化炭素を吸収しない」と言わなければならない。
次に森はどうだろうか?
木は二酸化炭素を吸収しないのに、森が吸収するということになると、森は木が複数あるということだけだから、木が複数になると二酸化炭素を吸収するという「複数の木の特別な作用」を考えなければならない。
まず、子供に教えるときには「森は木が多いだけだから、木が二酸化炭素を吸収しないと同じように、森も二酸化炭素を吸収しない」と言うのが正しいだろう。
ただ、木が多くなると枯れて腐敗するときに土の中に入ったり、水の中に沈んだりして酸素に触れない場合もあるので、若干は木の体のまま土の中に埋没するものもある。石炭がその典型的なものだ。
でも、石炭が数億年をかけてつくられたものであることで判るように、森の木のうち二酸化炭素にならないのは少量だとしてよいので、まず中学生に教えるなら「森も結局は二酸化炭素を吸収しない」と言って間違いない。
ところで、「森が二酸化炭素を吸収する」と言っている方の表現には何が抜けているのだろうか?
森から木を切ってきて、それを人間が材木や紙に使ったり、石油の代わりに燃料として使えば、その分だけ「二酸化炭素になる時期がずれて、二酸化炭素がでる場所が変わる」ということはある。
その場合でも「森」が「二酸化炭素」を「吸収する」のではなく、「森の木」を人間が移動して、移動先で二酸化炭素に変えれば、「二酸化炭素になる時期と場所が違う」ようにすることができる、ということだ。
「それでも、人間が出す二酸化炭素が減るから良いじゃないか」という論理に対して私は次のように考える。
森というのはそれ自身が、存在である。だから、まず「森」と言ったときには「森」そのものでなければならない。「森」は人間の為に存在するとの前提は私はとらない。
もし人間が森を利用するなら、「利用されてもらう」ということであり、森は人間の奴隷ではない。
だから、森を主人公として捉えれば、「森は二酸化炭素を吸収しない」と言うのが正しい。その次に、「人間が森に認めてもらって、森を利用できるようになったとき」という前提をつければ、「森は、人間が利用した分だけ、その森からでる二酸化炭素は減るが、同じ量が人間社会から出る。」と子供に教えるのが正しい。
どうも、「森が二酸化炭素を吸収する」というのは、「人間中心主義」と「利益や効率が万能」、そして「二酸化炭素は悪者だ」という前提があるように感じられる。
もう一つは、その場合でも現在の二酸化炭素問題は、人間が石油や石炭を大量に使っていることから生じているから、いわば「質」の問題ではなく、「量」の問題である。もし人間が100年前のように少量しか使っていなかったら、「森は二酸化炭素を・・・」ということすら環境問題にはならない。
その時なら間違いなく「森は吸収した二酸化炭素は、腐敗するときに放出する。」と子供に教えるだろう。利害関係がなければ表現が変わるが、それは子供とは関係がない。
もう一つ問題がある。
日本の国土で、余り石油を使わずに森林の木を利用できるところは少なくなってしまった。平野にあった森林はほとんどが伐採されて市街地となり、森も急峻でそこから木を取り出すのにかなりの石油を使うところが多く残っている。
よく、森林の有用性を強調するあまり「山の木を使っても二酸化炭素はでない」というような表現もあるし、森を使いたいという熱意から言えば判らないでもないが、子供に教えるのには問題がある。
山に行くのも自動車、山から木を切り出すのも機械、木を運搬するのも自動車というのが残念ながら現状だ。自動車や機械に使う鉄板も自動車そのものを作るときにも石油を使い、輸送にはガソリンも使う。
木を山から切り出して私たちが使うことができる状態になった時、すでに多くの石油を消費している。それも森を利用するための石油だ。
現代の環境問題には、1)森林の生育量の100倍以上の石油を使っていること、2)日本の森林はほとんど利用されていないこと、そして、3)仮に森林から木を切ってくるとしてもかなりの石油を使うこと、という3つのハンディキャップがある。
その事実、そのものに環境問題があることを子供に伝えるのが、私の考える「日本人の誠」なのである。
かつて日本では罪を犯せば、御白砂で「私がやりました」といい、ヨーロッパでは罪を認めたことになるので、「やっていない」というウソを言う。この差はその民族の誠実性の差であると私は考えている。
日本人は「結果」が自分に不利になるから「事実」と違うことを言うのは潔くないというかけがえのない文化を持っている。その誠実さを私は大切にしたい。
(平成20年3月30日 執筆)