アメリカ人やオーストラリア政府に「クジラを捕るな!」と言われて日本人は激昂した。

 

「クジラが可哀想だって、あいつらだってウシを食べているじゃないか!」

「日本の食文化は海だ。自分たちと違う文化を認めないと言うことか!」

と一斉に反発する。

 

 2008年の春に、捕鯨禁止運動の過激派である「シー・シェパード」が日本の鯨類研究所の調査船を襲い、薬品のビンを投げるは、乗り込んでくるはで大暴れしたので、よけいに日本人は怒った。

 

 大きな新聞も捕鯨禁止運動は理解できないと論評し、ノルウェーは捕鯨しているのになんで日本は禁止されるのだ。アメリカやヨーロッパ人の横暴だ!という声で満ちている。

 

 でも、それは本当だろうか?

 

 人間と自然の関係には3つの立場がある。

1)  人間は自然に手をつけてはいけない(原理主義)。

2)  自然が破壊しない程度に利用させてもらう(調和主義)。

3)  人間本位で自然を改造して良い(勝手主義)。

 

 かつての日本人のほとんどが「勝手主義」だった。その典型的なのが田中角栄首相が進めた「日本列島改造論」であり、ほとんど自然の制約というのを考えずに道路を作り、川を改修し、海を埋め立てた。

 

 日本が高度成長を遂げているときには、私たちは「自然の中に住んでいる」ということを一時的に忘れてしまった。家電製品を買うこと、自動車に乗ることを最優先したのである。

 

 それが一段落して、多くの家庭には家電製品が揃い、自動車を持つようになると、自然の大切さに気がついて「調和主義」に変わっていった。

 

 その過程で、「原理主義」も登場する。その典型的なものが「100%リサイクル紙」である。

 

紙は樹木からできるもので、樹木は生長する。従って、もし紙のリサイクルというものを調和主義で考えると「樹木が生長する範囲内で紙を利用する」ということになる。

 

高度成長が始まる1960年までの日本人は紙に関してはそのように考え、日本の森林を使って自給率100%で紙を利用していた。その頃でもリサイクルという方法はあったけれど、それは「足りないときにはリサイクルする」というやり方だった。

 

ところが、環境を頭で考えるようになり、特に東京のように森林も何もないようなところで、しかも冷房の効いたビルの中で考えると、原理主義になりがちである。

 

そこに「100%リサイクル紙」というのがでてきた。

 

100%リサイクル紙というのは「森林を利用しないのがもっとも良い」という考え方に基づいている。森林が生育するだけは紙や材木として利用し、足りずをリサイクルするというなら、30%リサイクル程度になるからだ。

 

 日本政府は「100%リサイクルがもっとも環境に良い」という態度を紙については明確に打ち出した。つまり「生育した木も伐採してはいけない」ということに決めたのだ。それを国民も支持した。

 

 もちろん、この決定で被害を受けた国がある。これまで大切に森林を育て、生育量の範囲で利用してきたヨーロッパの国であり、急激に広がるリサイクル運動でせっかく丁寧に管理して生育した森林を伐採し、捨てなければならない羽目に陥ったのである。

 

 森林を健全に育てるためには適度な利用が必要である。もし、森林を絶対に利用してはいけないという原理主義になると、「かつて、草原だった平野を田んぼにして、イネを植え、コメを食べるとはなんと言うことか!」と非難されることになる。

 

 もしこの非難に反論しようと思ったら、「森林は大切だが、草原は要らない」という論理を展開しなければならず、それはとても困難である。

 

 日本政府も日本人も、森林には原理主義を、捕鯨には調和主義を主張し、使い分けている。つまり「誠実さ」が感じられないのだ。

 

 それが捕鯨禁止問題を複雑にしている。

 

(平成20329日 執筆)