2008年3月19日、私は寒風吹きすさぶ大阪駅のホームに立っていた。時刻は10時少し過ぎで私が乗るはずだった特急列車の発車時刻はとうの昔に過ぎていて、まだ列車が到着する気配はなかった。
JRのホームは風通しが良く、しかも日当たりが悪いので、極端に寒いところが多いが、そのホームも例外では無かった。お彼岸が近づいて少し暖かくはなっていたが、それでもホームの寒風はちょうど、風邪の終わりに当たっていた身には応えた。
私が特急の指定席を買ったのが、出発時刻の10分前、そしてホームについて5分も経つと「京都線で人身事故があり、少し遅れる」という放送があった。
最初の放送がホームに流れた後、乗客はまだ怪訝な顔をして待っていた。そのうち、若い人はホームに新聞紙を敷いて座りだしたが、お年寄りはその寒いホームに立ったままである。
長く広いホームにベンチが一つ。座ることができる人は3人。そしてそのホームには時折、ほとんど聞こえない放送が流れるだけで、駅員は一人もいない。
5分後に列車が来るのか、それとも5時間かかるのか、乗客はトイレにも行けずに震えていた。もっとも大阪駅は改修中なのか、トイレ自身がどこにあるかもよく分からない。可哀想にホームで寒さに震える多くの乗客は、楽しみにしていた温泉旅行が最初から台無しになってしまった。
やがて、1時間が過ぎ、「現場検証に手間取っていて、まだ列車は車庫で待機しています」という放送があった。それまで「すみません」という放送は繰り返されていたが、待っていた私は、まさか列車が遠い吹田かどこかの車庫に入ったままとは思いもよらなかった。
情報の連絡には4段階があるという。
1) 伝えない
2) 起こったことか、数字だけ伝える
3) その意味を伝える
4) パートナーとして伝える
かつて、日本の鉄道は1)の時もあったが、最近では2)には進んでいる。でも2)だけでは乗客はトイレを探している間、列車が来たらどうしようという強いジレンマに陥る。
JRとしては言い分がある。
事故は滅多に起きないし、その時のための要員をいつも準備しておくことはできない。だから事故の時には乗客は「切り捨てなければならない」のであり、それはJRの経営上、仕方がないことだ。
しかし、事故で列車が遅れたときには「乗客を切り捨てて良い」というのは、JRと乗客の合意だろうか? 寒いホームに5分後に遅れの列車が来るか、5時間後になるかの不安に駆られながら待つお年寄りの乗客に、かりに「JRの責任を逃れるため」に情報を与えないというのなら乗客はJRの「パートナー」なのだろうか?
一見、簡単に見えるこの事件も、日本社会の「お金尺度」が透けて見える。かつての国鉄時代。たしかにさまざまな問題があったが、それでも国鉄マンはどんなに辛くても自らの職務を全うする覚悟と勇気を持っていた。
それが収益を主体とするJRに変わり、「お金のため」に働く経営者になった。経費節減、サービス重視という結果が寒風が吹きすさぶホーム、トイレにも行けない放送に結びついている。
この現状は「職務のため」に働くのと、「お金を儲けるため」と、どちらが日本社会のために良いのかと考えさせられる。
人間はさぼりがちである。だからお金に関係が無いとつい不能率な仕事をしてそれが国鉄解体の一つの原因にもなった。でも、本当に日本人は「お金」が基準でなければ「任務」をしないのか?
私は、社会は必ず発展していくと思う。だから国鉄からJRへの変化は良かったのだろう。でも、人間が人間としての尊厳や、異文化の中に生活する人を尊敬する心や、そして「自分を捨てて、相手を助ける」という考え方はいつの世にも大切だ。
なにかというと「マネー、マネー」というアメリカや、植民地の富を奪い続けたヨーロッパ文化から離れることだと私は考えているが、これについては追々、研究をしていこうと思う。
いずれにしても、3月19日は、私には良い寒風になった。私は深く反省した。それは、私の日常生活もまた、放送が滞るJRと同じ過ちをしているからだ。
(平成20年3月21日 執筆)