私が母から教えてもらった「もったいない」は「節約」ではなかった。お茶碗に残る最後の一粒まで丁寧に食べるのは、自分を生かしていただいているお百姓さんへの感謝の気持ちだった。

 

 伝統材料の勉強会を繰り返していた頃、桜が満開の長谷寺に行った。そして私たちの一行はそこから慌ただしく室生寺に向かった。でも、かつて人は京都から4,5日がかりで長谷寺参りをして、そこで病気平癒を祈った。

 

 今の私たちは精神に時間を使うのを嫌い、ただただ、お金を基準とした効率的生活を追っている。5日で長谷寺一つなら、1日に2つのお寺を回る方がトクだと感じる。

 

 今や、日本人は「精神的存在」から離れて「物質的存在」になった。それが近代というものが人間に与えた罰だろう。人は物質を得て精神を失った。

 

 かつて、化学工場の技術者として働いていた頃、入社した若者が徐々に無感覚になっていく様子を見た。仕事の中にはそれほど強く感じられなかったが、昼の従業員食堂では、かつてあれほど生き生きとして食べていた人が、だんだん静かになり、35才を過ぎるとほとんど脳が活動していないように見える。

 

 表現は厳しいが、まるで生きた屍のようにただ機械的に箸を口に運んでいるのだ。

 

 かつて、大学の学長室にいるころだった。部屋は2階にあり、賑わしく人通りの激しい道路に面していたが、夕暮れ、退勤する人々の肩に命を見ることはできなかった。足早に家路につく人の肩の列は奇妙に機械的で先を争っていた。

 

 何を求めて急いでいるのだろう? 仮面のような顔をしてひたすら家路を急ぐ。

 

 人間の死亡率は100%だ。だから人間は「物質」としての目標というものを置くことは難しい。いつかこの身はほろびるのだから、中途半端な目標をおくことしかできない。もし、できるだけ急いで目標を達成するとしたら、死ぬのを早くすることになる。でも、実は人間には滅びないものを持っている。それが「心」である。

 

 「心」には目標はない。「心」はいま満足することを望んでいる。今日が楽しく、今が充実し、そして祈ることができればそれで良い。冷たい水も、貧しい食事も、辛い坂も、私の心を満足させてくれる。

 

 当たり前のことだが、物質の豊かさと心の満足は比例していない。私には私の満足があり、彼には彼の満足がある。物質的な幸福は心の不幸であり、不幸は幸福である。

 

 「混迷の時代」、この時代こそ、芸術家、小説家、そして学者の活躍する時だ。テーマはいくらでも転がっている。みんな心を待っている。それは芸術であり、小説であり、そして学問だ。人々は、心が空になって私たちの作品を待っている。

 

 でも、それに応じるのはできるのだろうか?

 

 すでに私たちの心そのものが空になっていないか?と訝るときがある。私の心は本当に感激するだろうか?一つの方程式、風のそよぎ、波の音、かすかな蚊の振動に心動かされるだろうか?

 

 芸術は死に、小説は衰退し、そして学問は利権の手先となった。それは、芸術、小説、そして学問そのものの力が無いからではない。私の心が物質でむしばまれたからであり、蝕まれた心はあふれるほどのテーマを拾ってものにすることができないのだろう。

 

 いや、私は生きている。私は感動する。だから、私は学問を進め、真を追うことができるだろう。それはやがて人の心に届き、大きな流れになるはずだ。

 

(平成2035日 執筆)