ハノイの旧牢獄に行くと足かせのついたコンクリートのベッドが並んでいる。ホー・チ・ミンが獄中で叫んだ詩。
「身体在獄中
精神在獄外
(3行目は読めなかった)
精神更要大」
その独房の前に立つと、かつてその床につながれているホー・チ・ミンがまさにそこに捕らえられている錯覚に襲われ、今でもその床の色から足かせのさびて黒光りした色までハッキリと思い出される。
あれほど偉大な人物が・・・もちろんホー・チ・ミンを捕らえてこの独房に入れた人は後の「ホーおじさん」と親しまれるこの偉人とは比較にならないほどの俗物だっただろう。
偉大な人格は理解されない。人間の業の深さを感じたものである。
「フランスは卑怯にも我々の祖国を日本に引き渡した。わが人民はこれまでフランスという海賊に水牛のように仕え、今度は日本という海賊の奴隷になった。
ベトナムの2111万の人民は此のようなことに我慢できない。革命の闘志よ、蜂起の旗を高く掲げよ。祖国の聖なる呼びかけが今響きわたる」(ホー・チ・ミン、革命兵士への手紙、より)
「ゲリラ戦とはまず敵を精神的に追いつめることからはじまる。平穏に食事をすることも、そして眠ることもできないように、昼夜を問わず攻撃を仕掛けるのだ。
敵に休息を与えてはならない。どこにいても地雷をふみ、ねらい打ちされる、そんな恐怖感を敵に植え付けるのだ。そうすれば敵はやがて疲れはて、最期には死滅する。
インドシナに送り込まれてくるフランスの兵士は、やがて本国の家族へ宛てる手紙にこう書くようになるだろう。ベトナムではありとあらゆる洞窟、ありとあらゆる茂み、ありとあらゆる沼地、どこにいても死が待ち受けている、と。」(ホー・チ・ミン語録、より「ゲリラ戦について」)
ヨーロッパの植民地から祖国の独立を願った2人、ガンジーとホー・チ・ミンは正反対の作戦を採った。一方は無抵抗主義、一方は間断無きゲリラ戦である。
私はそのどちらが「正しい」のかを判別することができない。大きな歴史の流れ中でいずれにしても歴史の子である限りは、その中で正しかったのだろうと思うしかない。
何が正しいかは決まっていない。どう考えてもガンジーやホー・チ・ミンは私よりか立派である。この場合の立派というのはあらゆる面から総合して彼らの方が立派だ。そして自分より遙かに立派な人物の評価を自分がすることができない。
お釈迦様、イエス・キリスト、そしてマホメットの大きな3人がおられる。お釈迦様はあまりにお生まれになったのが古く、記録も少ないのでお経で知ることしかできない。マホメットは日本ではどういう人かを知る機会も少ない。
だから、私にとってイエス・キリストがもっともなじみが深いが、イエス・キリストはとても立派な人だ。その偉さは人間とは思えないほどだが、おそらくお釈迦様もマホメットも同じだろう。そんな偉い人を私がどなたが正しいかなど判断することはできない。
ともかく、アジアには近世から現代だけでも、ガンジー、アタチュルク、そしてホー・チ・ミン、さらには多くの優れた人物が多い。私たちはなぜ、これほどまでにアメリカ大統領選挙に目を向けなければならないのだろうか?