お湯を沸かそうと電気ポットにコードを入れようとするといつも奇妙な感じがする。

 

 ポットの上に「ロック解除」、「出湯」とか「沸騰・カルキ抜き」などと数ヶの表示がある。なんで、こんなに毎日、使うものなのにいちいち表示がいるのだろう。

 

 子供の頃はヤカンでお湯を沸かし、急須でお茶を入れていた。ヤカンにも急須にも決して「ふたを開けて水を入れてください」とか「茶葉はここまで」などの表示はなかった。

 

 身の回りのもの、いつも使う物にはすっかりなじんでいて、そこに「説明」など必要もなかったからだ。でも現代の私たちはなにか言い訳じみた説明の中で暮らしている。毎日の生活で使うものすら愛用品は少なく、私とのなじみも浅い。

 

 冷蔵庫の前に立てば、さて、どこが冷凍だったかなと一瞬、とまどい、はがきを出そうとしても切手を入れた引き出しすら、その前に知らぬうちに立っていることはない。

 

 かつて、祖父の思い、母のしぐさの込められたものの中で毎日が過ぎていったのに、今ではエイリアンと対決しながらの毎日である。

 

 ホテルで一夜を明かすときにはもっと悲惨だ。バスルームに行くと見知らぬ蛇口がついている。一体、左に回せばお湯がでるのか、上に上げれば止まるのか、さっぱり判らない蛇口がモダーンなデザインで私をにらみつける。

 

 ときに上げれば止まると信じてレバーを上げると水浸しになり、ある時には冷たいシャワーの水が不意に頭部を襲う。「ゆっくりおくつろぎ下さい」という支配人のメッセージがうつろに感じる。

 

 現代、ものにあふれた生活は、なじんだものの中で、流れるような時をすごした生活を遠くにおしやってしまった。

 

 「愛用品」とは「説明がいらないもの」であり、「考えなければ操作することができない蛇口」とは縁遠い。生活の潤いは新しいものからは感じられないのが人間というものである。

 

 私は「説明のいらないもの」の中で人生の時を過ごしたい。それには、まず持っているものの数が少ないこと、できるだけデザインを変えないこと、毎日の生活はもので心を満足するのではなく、同じものを使っていても毎日が新鮮で希望あふれるようでいたい。

 

 ところで、私たちの生活や人生は、そこに泥靴で入ってくるさまざまなことによって滅茶苦茶にされ、その中で多くの人が苦しんでいる。かつて、自分の生活は自分が決めるものであり、それは自分の小さな頃からなじみにある空間と行動だった。

 

 でも、電話は無遠慮にベルを鳴らしてなにをしていてもすぐ出ることを催促し、朝になるとゴミの分別を監視する人がジロッと人の顔をみる。

 

明るく生活をしようと電灯をつければ、煌々と照明をつけ真夏でもクーラーを効かせて背広を着込んでいるニュースステーションのキャスターから「温暖化防止のために節電しろ」と怒られる。

 

食べようとすればメタボリック、一服しようとすれば肺ガン、お塩をかければ高血圧だ。身の回りには見知らぬ「エイリアン製品」と、「なんでもダメおじさん」がウヨウヨしている。

 

 お正月。ゆっくりとした時間を過ごしていると、昨年は「エイリアン製品」と「なんでもダメおじさん」のせいでずいぶん、人生の時間を無駄にしたように感じられる。今年はなじんだものの中で、自分の好きなことをする人生を送ろう!