目の前に資源がある。自然から与えられたその資源を使い、日々、努力し、改善し、全力を挙げて「ものつくり」の仕事に取り組む・・・そういう行動は倫理的に非難され、人間にとって許されざる行為なのだろうか?

 

 私には誠に結構な仕事だと思われる。

 

 足尾で働いていた一人一人の人は「毎日を張り切って、正しく、人間らしく生活をしていた」だけだ。そして経営者は「生産量を落としたら会社が潰れるから、全力で運転する」という道しか選択は出来なかった。その結果、足尾は没落した。

 

 金属には似た例がもう一つある。今では隆盛を誇る新日鐵やJFEと言った巨大な鉄鋼会社は、30年前、あえいでいた。その理由は生産過剰である。生産過剰になった過程を簡単に振り返ってみよう。

 

 高度成長が始まった時、日本の鉄鋼の生産高は年産で2000万トンだったが、それがわずか10年ほどの間に1億トンに達した。しかし、実はアメリカやヨーロッパが鉄鋼生産の先輩で、「国民一人あたり一年に500キログラムしかいらない」と言うことが判っていた。

 

 日本の人口は12千万人ほどだから、鉄鋼生産量は6000トンで頭打ちのはずである。少し輸出があっても1億トンに近づけば警戒警報ぐらいは出さなければならなかったけれど、経営者は増産を続けた。

 

そして・・・「日本人の誠」を最優先する著者としてはここが問題なのだが・・・鉄鋼会社の幹部は従業員を叱咤激励しその全勢力を費やした。やがて、生産が過剰となり京浜地方の最新鋭製鉄所は一度も火を入れることなく、建設してすぐ廃炉に追いやられた。

 

 当時の製鉄会社の幹部に私は足尾と同じような質問をしたことがある。「すでにアメリカやヨーロッパの経験から生産量が1億トンになれば、それ以上はいらないことが判っていなかったのですか?」

 

 幹部は次のように答えた。

「もちろん、判っていました。でも他者との競争があり、それに「日本だけはアメリカやヨーロッパとは違うのではないか」という楽観論を打ち破ることは出来ませんでした。」

 

質問:「でも、従業員に残業を強い、新プラントの設計者には徹夜を求め、そして10年で破綻するのだから、彼らのことを考えると幹部としてはどうですか?」

答え:「今となっては心が痛みますが、当時は仕事をゆるめることは競争に負けることなので、そんなことは多くの人の納得性がなかったのです。」

 

 将来が見えてもゆるめることは出来ない。それは足尾も鉄鋼も同じだったのだ。もちろん、足尾の教訓は形を変えて現れた高度成長期の鉄鋼には活かされなかった。

 

そして今、私たちは、足尾、鉄鋼につづく三度目の正直、「石油の使い過ぎと枯渇」を目の前にしている。

 

 足尾はそのまま没落してしまったが、鉄鋼は雌伏30年、再びよみがえり、今は過去最大の活動と収益を上げている。雌伏期間に世界情勢が変化し、絶え間ない技術革新が鉄鋼に新しい時代を作り出したのである。

 

 人間は「未来を見て行動すべき」存在であろうか?それとも「今を正しく生きる」ことしかできないのだろうか? これまで地上に出現した生物、そして平安時代の日本人・・・かれらは未来を見て行動したのだろうか?

 

 中生代、白亜紀に地上を支配した恐竜は、巨大隕石がメキシコ湾に落下したことで絶滅したと言われる。地質をすこし勉強すると隕石説にも疑問は多いが、ともかく恐竜は突如として絶滅した。

 

 恐竜は2億年という長い間、生き延びてきた動物だ。もし恐竜が未来を見ることができ、やがて巨大隕石がメキシコ湾に落下して絶滅すると判ったら、彼らは生活を変えるだろうか?どのように変えれば彼らは生き延びたのだろうか?

 

 恐竜が絶滅を免れたら、哺乳動物は地上での繁栄を止められ、人間は登場せず、私たちも生まれてはいないだろう。

 

すべては時の流れのままに進み、決して意志は将来を変えない。

 

 目標は常にこころの中に存在するが、物理的な変化に対しては無意味なものであるように感じる。この世に生を受けたものが出来るただ一つのことは、「今日を精一杯、生きる」だけではないだろうか。

 

 晩秋の富士2.jpg

 

 車窓から雪で化粧された富士山が見事な姿を見せてくれている。富士山は噴火でできた。噴火をしてくれたから今の私たちは富士山の美しい姿を見ることができる。でもかつての富士山の噴火口には生物が住んでいて、彼らは噴火で全滅したに相違ない。全滅しないとこの美しい富士山はない。

 

 私が科学者であるからかも知れないが、今の日本社会の論調にはなにか傲慢なところや二重人格性を感じる。それは未来を自分たちが作ることが出来ると思い、未来を正しく推定することができ、そして他人にある行動を強制できると錯覚しているように見えるからである。

 

 このように考えると「石油を節約すれば寿命を延ばすことができる」という一見してあたりまえのことでも、間違いである可能性が高いことがわかる。つまり、この文章に追加するなら「世界に人類がいなければ」という前提がつくが、現に人類がいるのだから目標に到達しない。

 

 正しくは、「石油を節約してもその寿命を延ばすことはできない」のであり、それは世界に多くの異なった民族が生活をし、それぞれが夢と希望を持っているからだろう。