地下に眠る石油や鉄鉱石、つまり「資源」はやがて無くなる。
石油は大昔の生物の死骸がたまたま土の中で押しつぶされて残ったものだから限りはあるし、鉄鉱石もさらに前の時代の生物が呼吸してだした酸素で沈殿したものだから、これも限りがある。
それでも、鉄鉱石はあと1000年程度は持つだろうから、それほど心配ないが、石油の寿命は40年と言われているから、節約して使わなければならない。
特に、現代の日本はエネルギーのほとんどを海外に依存しているし、生活は何から何までエネルギーに頼っている。かつては、暗いから電気をつける、アカギレになるから瞬間湯沸器が欲しい、汚いから水洗トイレが良い・・・というようにどうしても必要なところだけに電気やガスを使っていた。
でも最近では石油は安いし、お金もあるので、駅に行けばエスカレーター、電車に乗れば冷房、車を運転すれば全自動となにからなにまでエネルギーを使うようになってきた。
石油が無くなれば、水洗トイレや瞬間湯沸器も使えない。
昔のあの汚くて臭いトイレに入らなければならないと思うとゾッとするし、冬になると可哀想なぐらい手がアカギレになって苦しむ子供たちがいた。その子供たちのひび割れた手を私は今でも覚えている。可哀想だった。
でも、今は瞬間湯沸器があり、水洗トイレがある。あまり「文明の利器」とは言われないが、水洗トイレと瞬間湯沸器は日本のような冬が寒い地域としては二大発明と言ってもよいと思う。
でも、石油が無くなるとなぜ水洗トイレが使えない。使おうとすると膨大な水が必要で、飲み水の80倍ぐらいは必要になる。それを各家庭に供給するために電気を使って巨大なポンプを動かし続けなければならない。
それだけではない。大規模な浄水場、薬品、水道配管や下水道配管、その配管を敷設したり修繕したりするときのトラックや重機、そして下水道の設備・・・みんな大量の石油を使っている。
水洗トイレとは「石油で動くトイレ」なのである。
ともかく、「石油を節約しよう」という機運が盛り上がってきた。そして、温暖化の問題も心配されているので、「私に何ができますか?」という問いかけが一種のはやり言葉のようになっている。
でも、本当だろうか?と私はいつも疑問に思う。
もし、日本人が一人一人、「一割」、つまり10分の1を目標にして、石油の消費量を減らし、ついでに二酸化炭素も減らそうと決意したとする。
こまかい計算はここでは割愛するけれど、もし、この「一人一人が努力する」というのが成功すると、日本人が使っている石油などのエネルギーはおおよそ世界の20分の1だから、その10分の1、つまり世界の石油の消費量は200分の1だけ減る計算だ。
だから、石油の寿命が40年とすると、その200分の1、「二ヶ月」ばかり寿命が延びる。精神的な意味で環境問題に取り組んでいる人はそれでも良いかも知れないが、私にはほとんど意味のないことのように感じられる。
少なくとも「石油の寿命を延ばそう」という目的は達成しない。
じゃあ、思い切って半分、減らそうと決意して国民的運動をしたとすると、20分の1の2分の1だから、40分の1だけは節約できる。つまり、40年が41年になる。
日本人が頑張って生活レベルを半分に落とし、世界の為に貢献・・・犠牲といっても良いような我慢だが・・・すると、1年延びる。
でも、どこかで油田が発見されたり、もしかすると原油の埋蔵量自体がそれほど厳密な数字ではないので、そのうち40年が50年になっているかも知れない。そうすると毎日、節約し暗い電灯の下で暮らしている人にとってみれば「なんだ!」と怒りたくもなるだろう。
だからこの手の問題は日本だけが頑張ってみても仕方がない。世界が一致して石油やその他の資源を節約したり、二酸化炭素を出さないようにしなければ、一所懸命頑張ってもやがてそれが恨みに変わってしまう。
現代の世界は、あまり人口が多くない先進国がエネルギーの6割を使っている。だからまず先進国が節約するのが良いけれど、アメリカもヨーロッパもあまり熱意がない。
日本では情報が偏っているのでヨーロッパ人も資源を節約しようとしていると勘違いしている人が多いけれど、ヨーロッパも今の日本ほどにも努力していない。みかけだけだ。
発展途上国はというと、これから経済的にも発展したいので、石油は必要だ。水洗トイレはもちろん、冷房も、自動車も、場所によってはテレビ、冷蔵庫、洗濯機のような三種の神器もないのだから、使いたいと思うのは当然だろう。
豊かな生活をしている人が、これから豊かになろうとしている人に「節約しなさい」と言ってもそれは見当違いで、人間として言ってはいけないことだと私は思う。
つかり・・・「もったいない、節約しよう」とか「一人一人にできること」という言葉は何となく良いことのように響くけれど、現実を直視すると意味のない言葉の可能性がある。
こういう話をすると「そんなこと言っていては何が出来るのですかっ!」とお叱りを受けるが、ダメなものはダメだから、それを踏まえてよくよく考えた方が良いと私は思う。
前の戦争の時でも、なんとか打開の方法を探る新渡戸稲造のような立派な人に対しても、新聞は「そんなことを言うのは非国民だ!」と誹謗して言論を圧殺して戦争に突入し、多くの罪もない子供たちが犠牲になった。
今度こそ、私は慎重に考えたいのだ。