やることにあまり意義を探さないこと、期限を少し早めて生活すること、この二つが気軽な人生を送るのに欠かせないことだと判ったのは30代のころだ。
でも、決められた期限の少し前に、自分でそれとは違う期限を決めるということは、かなり多くの人がやっている。そんな人でも、一応、自分としての期限を決めたものの、頭の中にはもう一つの期限、つまり本当の期限が入っているのが普通だ。
私も最初はそうだった。
たとえば、10月10日期限の原稿を、一応、10月5日に自分の期限を決めるのだが、そうはいっても自分の頭の中には「10日」という数字が入っていて、イザとなったら「最後の5日間の頑張り」に期待していたところがあった。
そんな覚悟であると、結局、ギリギリの9日になって慌てて残りをかたづけることになり、大いに反省することになる。そこで、とにかくなにがなんでも1週間前には完全に仕上げるように覚悟を決めた。
「自分で決めた期限を守る」というぐらいは出来そうな感じだが、不退転の決意で方針を貫こうとすると、思わぬ伏兵に遭うのは世の常だ。
まず、実際の期限がさらに先にあることがバレるとみんなが協力してくれない。
この世は「納得性」で成立している。「真実」とか「事実」、そして「希望」などは生活の中では見えない。自分の周りの人が「期限ギリギリでやる」という習慣がついていると、期限が近づかないとなかなか動いてくれない。
期限に関係がなくても何か依頼すると、「いつまでですか?」と聞いてくるのが常だ。その時に、本当の期日を言うとギリギリにしか回答が来ない。そうかと言って、一週間前の期限を言うと後でバレて信用を失う。
「忙しいのに、何であいつは!」と怒られてダメなのである。とかくこの世は住みにくい。
もう一つ困ったことは、ギリギリになった方が最新のデータが入るということだ。内閣改造が行われるときに、閣僚名簿が発表されるまでは記事が書けないが、発表されたら大急ぎで書く・・・ということと似ている。
周囲の人を納得させても、「時」の前後はどうにもならない。ギリギリに仕上げた方が良いものができる。原稿でも雑誌でも校了の日は徹夜と決まっているのだ。
ところが、もう20年も「期限前」を貫いていると、こんな物理的なことも打破できるようになってくる。まさに「継続は力なり」というと言ってよいだろう。
期限前に完成しようとすると、決まっていないところがある。そしてそれが決まると全体が逆になる場合もある。だから、決まらないまで動けないではないかと思うがそうでもない。
「期限前」という原則を守って生活をすると、決まっていないのに動けるようになる。つまり「起こってからではなく、起こることが予想して動く」という決定的な進歩があったのだ。
考えてみると一週間先のことも何も考えずに毎日を過ごすのが普通の私たちだ。昔のことで思い出さないが「期限前」にこだわる前はそうだっただろう。
でも、期限前にやろうとすると、結局のところどうなるだろう?と考えないとダメだ。予想だから間違う時には間違うが、すこしでも直前に修正しなくても良いようにするのだから、だんだん予想の能力が研ぎ澄まされて来たのである。
【脱線】
今年を象徴する文字に「偽」が選ばれたと言う。年金、肝炎、食品・・・確かに今年は「偽」の年だった。その中に、長い間の「リサイクルの偽」、フィーバーした「ダイオキシンの偽」、そして現在進行形の「温暖化の偽」を付け加えたい。
「言い訳ができれば良い」という時代が「日本人の誠で生きる」ように早くなって欲しい。そうしたら、生活もニュースもずいぶん楽になるだろう。
実は、人間がその人生を送るのが辛いのは少しでも得をしようとして藻掻くからだから。