ハンノキが樹木の中で最初にできたと信じているアイヌ人もいれば、違う派閥にいて「エルムの木が先だ」と頑張る人たちもいた。

 

 どの世でも派閥ができる。本当に正しいことが一つだけ判っているならともかく、人間の能力は知れているので、あっちが正しいと言えば正しいし、こっちといえばこっちである。神様だけにしか真実は判らない。

 

 ところで、エルムの木が最初に作られた木だと主張する人は次のように論理を展開する。この論理はハンノキが正しいとしている人が「ハンノキが病気の原因だ」と言っていることを踏まえている。

 

 エルム派は次のように言う。

 

「ハンノキで病気になるためには、その前に健康な人がいなければならない。」

 

 確かにそうだ。

 

「健康な人がいるためには食事がなければならない。」・・・もっとも

「食事があるためには料理をしなければならない」・・・もっとも

「良い食事を作るには火を使って料理をしなければならない」・・・もっとも

「火はエルムでおこせるがハンノキではおこせない」・・・フムフム

 

 ハンノキが病気の原因になるなら、病気の前に健康があり、健康の前に食事があり、食事の前に料理法があり、そして料理するには火がいる。火をおこすにはエルムの木が必要だ。

 

 だからハンノキよりエルムが先だ・・・と論理展開する。まるでソクラテスである。

 

 私はアイヌの文化を勉強するために何回か北海道を旅行した。そして多くのアイヌの方とお知り合いになり、その中で何人かの方と食事をし、お酒を飲んだ。

 

 その中で多くのことを学んだが、もっとも驚いたことはアイヌの人が実に論理的で頭の回転が鋭いことだった。かなり複雑なことを相当なスピードで理解し、議論した。とても普通の日本人ではついてこれないような速度でも悠々と話ができた。

 

 情緒的な日本人、論理的なアイヌ人。おしかった。それぞれ違う特徴を持っていたのだから、和人はアイヌ人を追放せずに共に仲良く暮らすことができたのではないか?

 

 人間は時として感情的になり、憎悪が憎悪を呼び、あらぬ方向に行くものである。それは自らの理性が止めようとしても止められない。心理的ストレスは蓄積し、解離性ヒステリーとして顕在化する。

 

 特に異民族間では遺伝子が少し違うこともあって、憎悪は増幅するようだ。そんな歴史は古い時代から現代まで枚挙にいとまはない。

 

 でも、冷静になってアイヌ人の文化を学んでみると、当然のことではあるが、そこには輝く知恵が詰まっている。アイヌ人は寒い「冬」を過ごすために「夏」に火を絶やさない。

 

 夏の暖炉の火は床から表土を貫いて地下に蓄熱される。それが少しずつ寒い冬に上がってくるのだ。冬に急激に暖めると雪が解けて断熱性が失われる。現代の蓄熱式住宅を数100年前のアイヌの住宅にその知恵を見いだすことができる。

 

チセの火.jpg