難しい問題である。

 

 守屋前次官は特定の業者から接待を受け、ゴルフをしたり娘の面倒を見てもらった。総額はよく分からないが数1000万円だろうが、庶民には天文学的でも、次官ともなればそんなお金は一年程度働けば稼げる。

 

ちょっとのゴルフや旅行で防衛省と人生をダメにする。人間とは愚かなものだ。

 

 ところでなぜ守屋前次官が悪いのだろうか?悪いから逮捕される。理由は「収賄」である。つまり「ワイロ」。

 

 なぜ、ワイロか? 金品をもらいあるいはゴルフ代を出してもらえば人間の心に「見返りでなにかしてやらなければ」という心が芽生える。それは心の奥底なので口には出さないし、決して他人には心の動きが見えない。

 

 でも、人間だからそうに決まっていると社会は判断する。そこで収賄になる。

 

 守屋前次官は国会で「友達つきあいだ」と言った。そして「なんの便宜もはかっていない」とも言った。でも逮捕される。それは「事実がどうだった」ということも大切だが、その前に「形式的にレッドカード」ということだ。

 

 裁判では必ずしもそこは明確ではない。「次官が特定の業者から金品をもらった」だけでは収賄ではないようである。その金品の見返りに何かをしたかが問題となる。

 

 でも私の倫理観では、「もらった瞬間に収賄である」と思う。まず第一に次官が特定の業者から金品をもらう必要がない。次官にはそれ相当の俸給が出ているはずだからである。

 

 ところで、「日本人の誠」の形として取り上げたいのは、そんな当たり前のことではなく、「あることでお金をもらったら、そのことでは発言を控える」ということに一歩踏み出したい。ご都合主義の温床になっているからだ。

 

 タミフルの審査の時、タミフルで研究費をもらった学者が入っていたが、後に排除された。研究費をもらって「有用な薬」との報告を出せば、その後に副作用があっても認めにくい。

 

 武士はお金は遠ざけた。それは心を平穏にしてものを判断するにはお金は邪魔になるからだ。

 

 インド独立の父、マハトマ・ガンジーは、「こころというのは落ち着きのない鳥のようなものであると私たちはわきまえています。物が手に入れば入るほど、私たちの心はもっと多くを欲するのです。そして、いくら手に入っても満足することがありません。欲望のおもむくままに身を任せるほど、情欲は抑えが利かなくなります。」と言っている。

 

スイスの遣日使節団長アンベールの述懐。

「(日本の)大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、人々は生活のできる範囲で働き生活を楽しむためにのみ生きている。」(江戸末期)

 

 お金をもらうとお金が欲しくなる。「誠」で生きればカネは欲しくない。

 

 ある時に、リサイクルや太陽電池、地球温暖化などで客観的な論評を読みたいから紹介してくれとの依頼を受けた。困った。ほとんどの書籍が「お金をもらった人」が書いているからである。

 

 リサイクルで研究費をもらった人はリサイクルがすばらしいとの報告書を書く。太陽電池の研究費を膨大にもらった人は太陽電池を作るための電気は計算に入れないでペイバックタイムを出すから有望になる。それを信じて買った人が大損になって泣いている。

 

 温暖化で収入を得ている人は温暖化が恐ろしいことを強調する。どれもこれも科学的なのに客観的な専門家が居ない。それは「一律に研究費を配分するのではなく、競争的資金の配分」になったこともある。

 

 そしてさらに、国立大学の先生が会社を作ることができるようになった。その会社に国のカネを入れて研究をして儲けることすら許されている。先生が審議会の審査委員になり、自分の会社の分野にカネを導入する。学問の世界も利益誘導型になった。

 

 先日、ある地方都市に行き、そこの博物館でかつての小さい自治区の首長の肖像を見た。立派な風貌だったし、武士の面影が漂っていた。

 

 個人的なことはあまり言うのが好きではないが、守屋前事務次官からはそういう印象は受けなかった。当時の為政者との印象の違いは鮮明だった。

 

 武士には魂がいる。百姓には土に対する信頼性が必要だ。そして商人はズルをして儲ける。だから士農工商である。現代は、武士が商人となり、「日本人の誠」が交代したように見える。

 

 私はたとえ学者であっても、研究費をもらった分野では社会的発言を控えるべきと思う。学問の自由、報道の自由は反権力であって始めて成立する。権力から金品をもらった人は、守屋さんが業者に手心を加えるのと同じになるだろう。

 

 日本には武士がいて武士道があった。だから、日本社会が発達するなら、農業も工業も商業も、徐々に武士に近づくのがよく、商人に近づかない方が日本の誇りを保てると思う。