情報化の時代と言われた頃、それはもう20年ほど前だったと思うけれど、近いうちにBSとかCSとか言うシステムになり、「テレビは100チャンネルを超える、おまえ時代遅れだ」と言われたものだ。
確かに放送設備や電波の割り当てだけなら、そうかも知れないけれど、誰がそんなに多くの番組を作るのだ? チャンネルが増えても番組を作る人はいるのだろうか?といぶかっていたら、案の定、数ヶの地上波ですら、感心した番組は少なくなった。
でも、テレビの変わりにネットが登場し、番組の作り手はボランティアになって、自由な発想で100チャンネル以上のテレビ局より多い情報が流れている。しかも今や個人のブログはとても面白く、時間の経つのを忘れるほどだ。
情報とは作り手と受け手でできる。少人数のテレビ番組がタレントを使って作るより、それは1億人の作り手の力は大きい。それこそが「全員参加の民主主義」の威力なのだろう。
情報が増えることは社会の実像をさらに明確に私たちの前に示してくれる。どんなに誰かが誤魔化そうとしても、あれやこれやと議論している内に、事実はおおよそ見えてくるからである。
でも一つ、ネットでも及ばないところがあるような気がする。それは「声なき人の声」である。次の写真は言うまでもなく火災の写真である。
私はこの写真を見ると、炎の中から阿鼻叫喚の叫びが聞こえてくる。それは必ず、年端のいかない幼児か、逃げることができない老人の最後の叫びなのだ。
日本は先進国の中でもとりわけ火災が多い。一年間の犠牲者は2000人を超え、さらに増え続けている。そしてその中で犠牲になるのは、統計的に半分が「幼児と老人」である。
幼児と老人はインターネットを使えない。つまり、現代社会にあっても「ほとんど発信できない人たち」なのである。私は長く「難燃材料」を研究し、一日でも一人でも火災の犠牲者を助けようと頑張ってきたが、まだ道半ばである。
ある時、大新聞が興味を持ってくれたので「社会の片隅でなにも発信できずに消えていく人を救ってくれ」と頼んだが、記事にはならなかった。
一年に2000人というと交通事故に次ぐ災害だが、火災は犠牲者が限定されている。でも、幼い命はかけがえのないものだ。それよりなにより、そんな年で死んでいく子供が不憫だ。
どうして死にゆく幼児が発信できるのだろうか? どうして「二度と再び、僕のような人を作らないでください」と訴えられるのだろうか?
テレビでは常連の学者やタレントが、強者を代弁する。安部さんはノイローゼか?、小沢さんは切れたのか?、亀田兄弟は生意気だ?、朝青龍は謝罪したか?・・・それは多くの人の興味だから仕方がないが、少しは社会の片隅にも光が欲しい。
ネットはそれに比べて「平均的」だが、やはり発信手段のない人を切り捨てているような感じもする。