アイヌの文化を勉強するまで、私は「人間には欠陥があるから、仕方のないものはしかたがない」と信じていた。

 

 その一つが戦争である。歴史が好きだった自分は中学校の頃から歴史の本を読みあさった。最初は文学が好きだったけれど、次第次第に歴史に関心が移ったように記憶している。

 

 歴史と言ってもそのうちの半分は戦争の物語だった。メソポタミア文明はアッシリアやバビロニアなどの帝国の交代の歴史であり、それには常に「暴虐」、「奴隷」などという用語が使われていた。

 

 中世になってヨーロッパ文化が花開いた後でも、「荒涼」などという血なまぐさい言葉を歴史から学んだ。だから、「戦争をすることは人間に記憶がある限り仕方がないものだ。人間という動物は欠陥があるのだ」と信じていた。

 

 でも、アイヌの文化を勉強し、そこに約2000年間にわたって戦争というものが無かったことを知り、アイヌ民族の考え方を学ぶに従って、戦争というものは人間という動物にとって避けられないものではなく、特定に民族の性質によるもので、それがある錯覚の中に入った場合だけであることがわかって来たのだった。

 

 人間には無限の欲望があるように見える。それが戦争を呼ぶ。

 

 たとえば簡単には「給料」だ。「給料は高い方がよいか低い方がよいか?」と聞かれて100人が100人、「高い方がよい」と答えるに決まっている・・・と現代の日本人は思う。

 

 でも、おそらくアイヌはそうではなかった。文字が残っていないから確実なことは判らないが、「よりよい生活」という概念は無いように思われる。

 

 その代わり彼らが判っていたのは「自分の人生」であり、「自分が満足する生活」だった。

 自分が一ヶ月20万円で生活するのが満足なら30万円と20万円とどちらが良いと聞かれれば、「お金が余っても面倒だから20万円でお願いします」と答える。

 

 そんなこと、現実にあり得ないと思うだろうけれど、江戸の職人やゲルマンの農夫は同じように答えている。

 

 そこで、「よりよい生活」を求めている人生と「自分が満足する生活」を過ごしている人と、どちらが「幸福」だろうか?ということを少し考えてみた。

 

 もし、その人が一日が終わって眠りにつくときに仏様に感謝してお祈りをし、そして満足して床につくことを「幸福」と感じるなら、それは「自分が満足する生活」の方が幸福だろう。

 

 もし、その人がいまの生活に不満を持ち、少しでも良い生活をするために努力することを生き甲斐とするなら、「よりよい生活」を目指す人生が「幸福」のはずである。

 

 でも、「よりよい生活」を目指しながらの人生で、「日々の幸福」を見いだすことは難しい。なぜなら、「よりよい生活」というのは「現在は満足ではない」ということなので、毎日は不満だからだ。

 

 軽自動車を買えば小型乗用車が欲しくなり、小型乗用車に乗っていればクラウンに乗りたくなり、クラウンに替えればレクサスということになる。その人が70才になってレクサスを手に入れたとしたら、人生はずっと不満だっただろう。

 

 目標のある人生はすばらしいという。でも、それはここ100年ぐらいに言われ出したことで、普遍的・・・つまり、常に正しいとは言えないのではないか?

 

 すでに「よりよい生活」に洗脳された私たちにとっては、「目標のない生活」の中で「張り切った精神状態」を保つのは難しい。でもそれは錯覚がもたらしていることだ。それは「より悪い生活」を良いとした、かの良寛様の言動からも判る。

 

 ところでアイヌの集落をコタンと言うが、コタンはいつも「美しいところ」にある。それは毎日が楽しい生活を過ごすためには美しい景色が必要であり、目標のある生活では現代の私たちの身の回りのように「ゴミための中」でも生きていけるのだろうと私は思う。

 

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(コタンの湖:著者撮影)