映画「メリーポピンズ」の一シーンにロンドンの銀行家が少年から2ペンスを貯金してもらうために、「このお金を銀行に預ければスエズ運河ができる」と歌う場面がある。
個人が節約し、銀行にお金を預ける・・・そのお金は銀行から投資家に貸し出され、社会的に有意義なものに使われる。
スエズ運河ができればそれまでアフリカの喜望峰を回ってインド洋に行かざるをえなかった船舶は、スエズ運河ができれば、ものすごい近回りができる。
そのメリットは2ペンスの貯金の成果だから2ペンスの元金はもちろん帰ってくるし、スエズ運河からあがる収益が利子としてもたらされるという訳だ。
お金というのは変なものである。いらないと言えばいらないし、いると言えばいる。有効に使えば富を生むし、ムダに使えば不幸になる。まさに使い方次第だ。
ところで、お金を銀行に預けるとそれが有効に使われるのは「意味のある仕事をするのにお金がいる人たち」が存在することだ。そういう人たちが居れば銀行にお金を預ける意味もあるし、銀行の社会的価値もある。
でも、「意味のある仕事をする人」が居なくなれば、銀行は意味のないことにそのお金を使わざるを得ない。その一つの例が2006年に破綻しはじめたサブプライム資金である。
少しわかりにくいこのお金の問題は「住宅を買うときに貸し付けるローン」のことである。そして「サブ」という名前は「借りたお金を返す当てのない人がローンを組む」という意味を持っている。
もともと住宅は自分が住むために買う。そしてそこで人生を送る。でも社会が歪んでくると自分が住みもしない住宅を買い、それを人に貸すことで儲けようとする人が現れる。
資本主義、自由主義の社会だから、自分が住まなくても家を建ててそれを人に貸すことはシステムとしても倫理としても悪いことではない。でも社会全体としては問題が起こる。
アメリカにしても日本にしても一億人とか三億人というような人がいると、なかなかすっきり考えることは難しいが、100人ぐらいであれば直感的に分かりやすい。
ある村に100人の人がいて、そこに銀行があったとする。その銀行にとても積極的な性質の頭取さんがいて、お札をどこからか借りてきて、それをドンドン村人に貸した。お金を借りた村人は自分の財産を作ろうと思って、一人一軒の家を建てた。
その村はもともと100人分が住む家があったので、それに加えて新しく100軒の家ができた。最初は狭いところに住んでいる人や古い住宅の人が借りてくれたが、何しろ100人しか村人が居ないのに、100軒も新築した日には早晩、空き家が出る。
造幣局からお金を借りた村人は、自分の家を売ってもすでに新築の家が余っている状態だからどうにもならず、返済不能に陥った・・・これが2006年の「ヨーロッパ」で露見した「アメリカのサブプライム問題」だった。
当たり前のことである。
住宅は住むために建設される。利殖のためにつくってもお金が住宅に住むわけではない。でも、毎日毎日、お金のことばかり考えていると人間は「お金は生きていて住宅が必要だ」と錯覚する。そして住む人以上の住宅を建設する。
アメリカやヨーロッパ、そして日本の銀行はなんで「意味のある仕事」ではない「サブプライム」などに手を出したのだろう。それは「国民から預かったお金を使う人がいないから」である。
国家が成長期にあり、多くの国民がものを欲しがるので工場を造ってドンドンものを作らなければならないときには銀行が貸し出す「意味のある仕事に必要な資金」は現実的に存在した。
しかし社会が成熟し、ものがあふれるような状態ではまともな借り手は居ないし、といって自分の手元には豊富なお金だけがある。だからサブプライムに手を出したのだ。
ファンドと言い、サブプライムと言い、どこまで行くのだろうか?
もともとお金は「従」である。お金が主人ではなく、お金は人が質素に満足して生活をするために少しだけ手伝うのに役立つものである。生活や人生をお金で計算してはいけない。お金はそのほんの一部なのだから。
でも、このサブプライム問題はお金が主人になり、お金が家に住むと錯覚したところにある。
とりあえず、今日一日、お金のことを考えるのを止めてみてはどうだろうか?そうするとテレビも新聞も見ることができない。マスメディアもお金にまみれ、記事の半分はお金である。
外に出ればお金がいるから、あふれるほどのお金をポケットに入れておこう。決して使うことはないが、相手が求めてきたらいつでもその倍をあげられるように準備だけはしておこう。そうすればお金を考えなくてもよくなる。
そうしたら、本当に自分がしたいことが見えてくる。お金が住宅には住まないことも、高いものが美味しいとは限らないことも、なにもかも見えてくる・・・
つづく