ここ40年。世界の人口は増え続け、30億人が60億人になった。人口が増えれば食べるものも増やさなければならないので、世界の穀類(コメ、麦、トウモロコシなど)の生産量は一年間10億トンが20億トンに増大した。

 つまり人口が2倍になったので穀類も2倍の生産をするようになったということだ。今から100年前の20世紀には世界人口は15億人だったから、100年間で4倍になったことになる。

 その前の100年間は7.5億人が15億人になり、2倍になったから、19世紀は100年で2倍、20世紀は100年で4倍だ。もしこのまま行けば21世紀は100年で8倍になり、人口は480億人と計算される。

 

 現在の60億人でも人類の数は少し多く、人類以外の野生動物などはほとんど住むところが無くなっている。そしてこの地上で480億人が生きていく為には毎日、ジャガイモしか食べられなくなるとも計算されている。

 

 少し多すぎる気がするし、にぎやかで良いかも知れない。

 

 ところで、今のところ穀類生産は順調だ。畑の面積は7億ヘクタールでほぼ一定だが、田畑に石油を投入して生産量を2倍にしてきた。

 small世界の作付け面積と穀類生産.jpg

 穀類生産量の20億トンを人口の60億人で割ると、ほぼ300キロになる。人間が生きるのに必要な穀類は1年に300キロあればよいから辻褄は合っている。

 世界がもう少し狭く、村に60人の人がいて、作物が一年に一人あたり300キロ採れれば、その村で飢える人はいないだろう。お金持ちは少し多く食べるだろうし、貧乏な人はお腹をすかすことになると思うが、それでも餓死する人などいるはずもない。

 ところが、現在の世界では約8億人の人が飢え、年間で1500万人の人が飢え死んでいると国連の世界食糧計画が公表している。

 なんと言うことだろうか!なにがおかしいのだろうか?そして私たちは、すでに「世界に飢えて死ぬ人がいるのはしかたがない」とあきらめている。

 一方、日本はお金持ちだ。だから自分では穀類(コメ)を食べる量の28%、つまり4分の1しか作らない。田んぼがないわけではないが休耕田にしている。そして4分の3を輸入して、その半分を捨てている。

 あまりに捨てる量が多いので、さすがに気が咎め「食品リサイクル」ということを思いついた。でも食品がリサイクル出来るわけはない。新鮮では無くなるし、しばらく立つと腐敗する。リサイクルするのは食品ではない。

 食べ残した食品は堆肥となる。でも堆肥となった食品がまた食品になる比率は1000分の1にも満たない。だからほんの僅かでも食べ残しを少なくすれば、堆肥などにする必要もない。

 どこまでやるのだろうか? お金を持っていれば何をしても良いのだろうか?

 確かに今の社会システムでは、隣に飢えた人がいても、お金を持っている人が食べられないほどのパンを買い、2,3切れを食べて残りを暖炉にくべても逮捕されない。

 でも逮捕されるべきである。社会の秩序のもっとも基本は「助け合い」である。飢えて死んでいる人がいるのに食べられないほどの食料を買って捨てるのは間接的な殺人である。お金という凶器を使った殺人だ。

 どこまで行くのだろうか?格差問題と言い、南北問題と言い、その傍らで地球に優しいという。

 かく言う私も最近では飢えたことが無い。ひもじいことすら少ない。メタボリックなんとかと言って無理をして食べるのを減らしているような状態だ。

 人には能力の差もあるし、運不運もある。でも、越してはいけない一線があり、それは社会システムと倫理観で防がなければならない。どうしても、輸入食品の半分を食べ残すという日本の現状と、世界で8億人の人が飢えているということを認めることはできない。

 国は政策を定めなければならないが、政治がどうであれ、日本人そのものが魂を持たなければならない。我々は「日本人の誠」を行動に示すときだ。

つづく