生物のとって我が家とは格別のものである。特に集団性の強い動物には我が家や我が村はその人生を送る上で欠かすことは出来ない。
オオカミは夫婦仲が良いことで知られている。一組の夫婦は約10キロ四方の縄張りを持ち、家族には子供、行きそびれた姉妹、年老いたものが一緒だ。
敵に対しては父親が戦い、母親は家族を守る。迷子が紛れ込んだら我が子同然に育てる。オオカミ少年、オオカミ少女が知られているのはこのような家族単位の生活と習性からだ。
ところで、日本にもかつて家族があった。
明治初期に来日した女流旅行家、イライザ・シッドモアの手記を一つ紹介する。渡辺京二さんの著作からだ。
「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。
……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。
子供らは泡立つ白波に立ち向かって利して戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。
暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」
この美しくほほえましい家族の描写には二つの感想が寄せられる。一つはほのぼのとした日本の原風景であり、家族のぬくもりを感じるという感想である。
もう一つは、このような旧態依然とした家庭、男が威張り、女性が働く環境こそが問題だという認識、この二つに分かれる。
時代とその人が生きた環境によって受け取り方が違うが、私はこの女流旅行家の描写から楽しい家族の人生というものを感じる。
亭主が獲物を捕り、かみさんがご飯を炊くという役割分担は、運動神経や筋肉に優れた亭主がその力を発揮するだけで特に役割分担を強制しているようにも見えないがそれは私が男だからかも知れない。
ともかく、人間にとって朗らかで笑いの絶えない家庭はかけがえのないものだ。娘さんは笑い転げ、子供たちははしゃぎ回る。老人は老人で家族の中で自らのポジションを理解して一つ後ろに控えている。
家庭が破壊された現代、小家族となった現代、それは人間がその人生を送るのには不適切な場であろう。そしてそれはヨーロッパ流の「個の重視」がもたらした大きな欠陥だったと私は思う。
人間は相手を尊重し、自然を敬い、その中で自己を制限して生きるものである。自分だけが正しい、自分が報われたいと願ったら、それは軋轢を生み、格差を生じ、人生は暗くなる。
もうひとたび、私たちは日本人の誠に戻り、暖かい家庭、暖かい友人関係、そして暖かい社会を作りたいものである。それには、「個」を捨てなければならない。
つづく