日本で環境問題が起きたのはバブルが崩壊した後である。

 

簡単に戦後の日本社会の変化を整理してみると、1945年の終戦から1960年までが戦後復興期で、必死になって焼け野原から普通の生活ができるように努力した日々だった。

 

1960年から高度成長が始まり、1975年までの15年間は成長につぐ成長を遂げて、世界的には「奇跡の成長」「日本株式会社」と言われるように一丸となって先進国の仲間入りをした。

 

その結果、鉄鋼生産高は1億トンを超えて世界一になり、家電製品、オートバイも世界一、さらに自動車などの産業も間もなく世界一になる。

 

1975年から日本社会はその目的を失った。それと同時に、急速な成長が社会に歪みをもたらし、大気汚染、水質汚濁などを伴う公害事件が頻発した。ダイオキシンの濃度が一番高かったのもこの時期である。

 

省エネルギーや脱硫技術、汚泥処理技術などの環境技術が大幅に進んだのも1975年からだったが、それと同時に、グルメ騒動、ボジョレヌーボー、土地の買い占め、乱開発されるゴルフ場などの狂乱状態も見られた。

 

すべては高度成長によって得られた富を、それを使い慣れない私たちが右往左往した結果である。農協のおじさんたちが胴巻きに現金を入れて海外旅行に出かけ、顰蹙を買ったのもこのころである。それはある意味で日本人の象徴だった。

 

恥ずかしいことで思い出したくない。でも、人間はお金が入ると一度は浮かれたくなる。それも人間らしくて良いかも知れない。

 

そして1990年にバブルが崩壊し、日本社会はやることを失った。

 

その時、地方自治体の多くは毎年増大するゴミを処理しきれずに簡単な処理場にただ投げ込んでいたので、そこから毒物は流れ出すし、処理場が満杯になるなどの問題が顕在化した。

 

もちろん、家庭からのゴミは焼却すれば体積が20分の1になり、酸化物になるので毒性も低くなるが、そのような高性能の焼却炉はそれまで自治体の職員が親しくしていた出入り業者は扱っていなかった。

 

業と官の癒着は強く、性能の良い新しい焼却炉は「実績がない」という理由で排斥され、それにダイオキシンなどの虚構が手助けをしてリサイクルが出現した。

 

もともと「ゴミ問題」というのは「焼却できないような低い技術の焼却炉のメーカーとつきあっていた自治体の能力の問題」であって、まともな環境問題では無かった。リサイクルは見当違いの方法であることもまた明瞭だった。

 

同時に登場した、ダイオキシンも環境ホルモンも、また地球温暖化ですら、「被害者を出すような環境破壊」ではなかったが、主としてマスメディアの視聴率や販売部数増大の戦略で大げさに報道され、それが利権とつながって巨大に成長した。

 

日本の環境問題が、このように「実際の環境破壊が起きていない」状態で成長したもう一つの理由が「金余り」だった。

 

国民一人一人は貯金とか預金が出来るが、国は出来ない。国は預けるところがないので、国民が節約してお金が余るとそれを道路などで使い切ってしまわなければならない。

 

かつて社会に活気があり、高度成長しているときには国民が余したお金は私企業がドンドン借りてくれて、それで商売をした。だからお金は正常に回転していた。

 

でも成長が終わりほぼゼロ成長が続くと設備投資も減少して、お金は道路など不採算の投資に回されることになった。その一つが環境だった。環境には大義名分があり、そしてお金を食う虫だったからお金あまりの時代には最適のテーマだったのである。

 

しかし、現実には環境は幻なので、その幻をどのように長引かせるかが問題であり、そのためには次から次へと新しい環境問題を発生させて継続的に底にお金を投じるのが望ましい。

 

かくして誕生したのがダイオキシン、環境ホルモン、クールビズ、レジ袋などであった。

 

 このような社会的変化の元で、同時に女性の社会進出が進み、女性が堂々と意見を述べるようになった。そのことは進歩だったが、直ちに女性が、「社会には様々なトリックがあり、利権が渦巻き、全体が動いているところにある特定の問題がある」ことを咀嚼するには時間がかかったのだろう。

 

 また、私はことさら女性とか男性という性別を強調するのは主義ではないが、それでも男性に比較して女性が恐怖心を持っていることは確かであり、環境問題で女性の恐怖心をかき立てるのに成功したのもまた事実である。

 

 環境破壊に対する恐怖心、毒物に対する恐れ、節約の心など女性が持つ心理を巧みについた虚像の構築が次々と行われてきた。その結果、リサイクルという制度はリサイクルをしない制度である」とか、「レジ袋の追放はタダで供給していたスーパーは収益が上がり、石油の消費を増やすこと」などの事実検証は無視され、まるで戦前の大政翼賛会の婦人会のような活動を継続することになる。

 

 女性の間違った行動を守るのは、行為の正当性ではなく、女性を非難するのは男女共同参画の時代に反すると言うことであり、間違いを指摘すること自体が非難される時代になっている。

 

 しかし、私が知っている尊敬すべき女性はいずれも冷静であり、自らの行動を客観的に見ることが出来る方である。決して感情的にならず、社会の一員として過度に女性を強調せずに仕事をすることが出来る。

 

 ともかく、高度成長後の日本の社会的目的の喪失、バブル崩壊後の空白、金余り、そして女性の進出などによって「日本には存在しない環境問題が、あたかも緊急の問題のように虚像が構築される」という状態になったのである。

 

 人生は限りある時間であり、間違ったリードで他人の人生の時間を失うことがあれば、それは社会的犯罪であろう。

 

分別が自治体職員の怠惰を応援するものであり、節約が中央官僚の裁量権の増大をもたらすものであり、それによって日本国民の生活の自由が奪われるとしたら、それもまた犯罪だろう。

 

 果たして日本に環境問題というのが存在するのか、次回から更に詳細に検討していきたい。

 

つづく