東京の大井町の東口、そこからほんの少し歩いたところにローソンがある。ローソン大井町東口店というのだろうか、店の名前は判らないが、私は200785日、午後640分、そこでおにぎりとお茶を買った。

 

 払ったお金は560円だったか、460円だったかは忘れた。ともかくそのぐらいのお金だった。私はポケットを探り、丁度、560円を払い、袋に入れてくれたおにぎりとお茶を持ってローソンを出ようとした。

 

 その時、私の後ろから甲高い女性の声。

「お客さん!お客さん!100円!」

 

 私は足を止め、自分のことだろうかといぶかり、振り返り、そして少し恥ずかしく思いながらレジに戻った。

 

「お客さん、100円多いですよ」

と女性がそういって100円を戻してくれた。私は

「すみません」

といってその100円をもらってまたドアーを開けた。

 

 ローソンがどんな会計システムを取っているかは判らないが、客が100円を多く払ったからといってローソンが損をすることはない。むしろそのままポケットに入れてしまえば100円はよけいに入るだろう。

 

 客としての私はすでに100円を忘れている。確かに思い出せば、10円を出そうとして100円と間違えたのだろう。

 

 そういえば・・・・私は駅に向かいながら名古屋の道路で見たおばさんの姿を思い出していた。

 

 

 名古屋の北方、矢田の文部省官舎から、ある日、私は名古屋大学に向かっていた。名古屋ドームの横を通り、砂田橋を曲がり、そして広小路通りにでる。そこで私は赤信号で止まった。

 

 目の前の横断歩道を、急いでいるのだろう、片側3車線ある広い道路の右からおばさんが小走りに横断歩道を渡っていた。私はクーラーの効いた車の中で音楽を聴きながら、おばさんが灼熱の横断歩道を渡るのを見ていた。

 

 もう、ほとんど渡った頃だろうか、そのおばさんはフト、何かを思い出したように振り返り、そして引っ返すと中央線に近いところに落ちていたゴミ袋を拾ったのだ。そして、もう赤信号に変わるのではないかと恐れながら、今度は走って横断歩道を左に渡った。

 

 すぐ信号は青になった。おばさんはホッとした顔をして歩道に立っていた。

 

 私は恥じた。「あのゴミ」は「あのおばさん」が捨てたものではない。なにかの弾みにその前に誰かが横断歩道を渡り、その時に落としたものだ。おばさんにとっては縁もゆかりもないゴミなのだ。

 

 それなのに、私はおばさんを脅すように信号が変わるのにおばさんは戻った。恥ずかしい、とても恥ずかしい。私は信号が変わったら発信した。おばさんが遅れたら敷いても良いように・・・

 

私は恥を知る日本人ではない。おばさんは日本人だ。誰かが「おばさん」という用語は差別語だと言った。でも私は賛成できないおばさんという用語は尊敬語だ。日本のおばさんは偉い。

 

だって、灼熱の道路だ。そこに落ちている自分とは関係のないゴミ袋。それを拾って歩道まで走る。それはまさに自分の子供の幸福なら我が身を捨てるお母さんの姿だった。

 

 ああ! 私は国立大学を出て学問も出来る。でもそんなことはなんだろうか? ローソンのレジの女性、横断歩道のおばさん、私は恥ずかしい。私はなんだろうか?

 

 日本はおばさんによって支えら得ている。いや、それは正確な表現ではない。日本は日本人の誠によって支えられている。その誠が今やおばさんにしか残っていないだけだ。私には知恵がある。その知恵が私をズルくする。

 

 もちろん、おばさんにも知恵がある。でもおばさんはその知恵は人間というものを知っている知恵であり、私の知恵は自分を守るだけの知恵だ。

 

 私は教育に絶望する。それは教育を受ければ受けるほどズルくなるからだ。私が教育したい人、それは「教育を受ければおばさんになる人」である。

 

 おわり