江戸時代には江戸時代のタブーがあった。ヨーロッパ中世には中世の、そして民主主義には民主主義のタブーがある。
タブーという言葉は否定的だが、それを積極的に言えば「原理原則」であろうし、また「倫理」でもある。それでも「原理原則」と「タブー」とは少し離れているように思うけれど、あまりそれを追求しないで先に進もうと思う。
現在の憲法では「言論の自由」が許されている。だから、基本的には何を言ってもよいし、何を書いても良い。でも、それが無制限かというとそうでもない。
一番、はっきりしているのは個人を中傷誹謗することだ。ある時に個人の「名誉毀損」になる場合について、弁護士に聞いてみたことがある。その弁護士は次のように言っていた。
言論の自由が、個人に対する名誉毀損になるのは次の場合であるという。
1)個人に反論の機会が与えられていない時
2)個人が改善しようとしても改善できない時
例を挙げてみよう。
ある新聞が特定の個人に目をつけ、その個人を継続的に新聞紙上で攻撃するとする。その個人は体力、組織、お金のあらゆる面で新聞社に対抗できない。本当は新聞社の方に非があるとすると、それはとんでもない言論の自由を傘にきた暴力のようなものである。
松本サリン事件の時のある住民に対する新聞やテレビの報道は個人の名誉毀損であり、暴力だった。
第二番目は古い日本ではあまり意識されなかったものだが、人種、性別、生まれなど個人ではどうにもならないものを批判する場合である。言われてみれば当然で異議を唱える人はいないだろう。でも、なかなか現実にはこの条件をしっかり守るのは難しい。
「アメリカ人というのはだいたい、そういう考え方をするんだよ」という言い方はOKなのだろう。でも「彼はアメリカ人だから・・・だ」というのはダメということになる。
かつては「女だから」という言葉があって、環境関係ではレイチェル・カーソンが「沈黙の春」という名著を出したときにアメリカでも「子宮で考えたヒステリーだ」という批判がなされた。これなどはこの批判に類するだろう。
レイチェル・カーソンが書いたものが気に入らない場合があったとしても、「内容」を批判すればよく、またもっと積極的により進んだ事実や論理を展開するのが好ましいのは当然である。個人批判は前向きな結果はでない。
人種、性別などはわかりやすいが、「彼は**大学を出ているのに」という批判も控えた方が良いだろう。大学を出直すことはできないし、批判している対象がその大学とどのような関係にあるか証明するのは難しいだろうからである。
ところで、私自身も大いに批判するが、それには一つの原理原則を持っている。それは、
「自由な批判が許されるのは、自分自身と自分が所属している強い団体」
という制限をおいている。
自分を自分自身が批判してもそれは許されるだろう。そして自分が所属している強い団体・・・政府、自治体、私の場合の大学、NHK、四大新聞などがその中心である。また環境関係でも私が納めている税金をかなり使っているところは批判しても良いと考えている。
つまり、言論の自由が認められているとき、その言論の自由とは「権力、および関係する強大な組織」に限定されるのが現代社会の「原理原則」だと思う。
自分が関係していても「弱い組織」やまして「個人」はあまり批判してはいけない。それは赤ちゃんやお婆さんが「悪い」から攻撃することと似ている。
政府を批判する自由が誰にでもあることは異論がないと思う。もともと言論の自由が保障されるのは政府に批判的であることが条件でもある。政府の覚えが良いことだけを言うのならもともと言論の自由というもの自身が不要だからだ。
NHKは批判に敏感だが、国民から受信機設置料を取っている限り、批判を受けるのは仕方がない。NHKが受信機設置料を放棄して、自分のお金で運営し、見るか見ないかは視聴者の自由ということであれば、民法と同じように批判はかなり緩和されると考えられる。
ところで、私もときどき自分の著作を読み直して反省することがある。それは「書いてある内容を批判すれば良いのに、うっかり筆が滑って相手を批判する」ことがあるからだ。
たとえば、環境省は15年にわたって地球温暖化(気候変動)による海水面の上昇について不正確な記述を繰り返してきた。そのこと自体は批判されるべきだろう。でも、だから「環境省は・・・」と組織自体を批判するのは間違っている。
批判というのは、「あの人は・・・」という批判をしなくても、「このことは・・・」とそこに書かれたことだけを批判することができる。
人間の心は複雑だ。
野原の中で一人ぽっちで生きていくことは出来ない。何でもかんでも自分一人ではできないし、第一、寂しくてしょうがない。だから、お隣さんがいた方が良いし、時には都会の雑踏の方が気が休まる。
でも、自分の心の中には悪魔が住んでいる。だから、人の悪口を言うと快感を味わうことができる。もともと悪口というものはあまり良いことではない。だから悪口で快感を味わうこと自体、変なものである。
みんなと一緒に居たい、そうしないと寂しい。でも、悪口も言いたい・・・人間とはやっかいなものである。
つづく