科学の進歩が不十分で生活自体に苦痛を感じる場合には教育や学問についての見解は対立的に分かれる。一つは「よきをとりあしきを捨ててとつ国に劣らぬ国になすよしもがな」(明治天皇)に代表される。もう一つは「学はみずから時代遅れになることを望む」(マックスウェーバー)である。この二つは厳しく対立し決着がつかないまま今日に至った。

 

しかしきわめて辛い労苦から解放され、不必要とすら感じられる物品の中で蠢く我々現代先進国国民にとっては「教育と学問」をいとも単純な定義で合意することが出来るだろう。それは、教育については教育基本法第一条に定めている通り「人格を高めることを目的とするもの」であること、そして学問は「価値判断で評価することができないもの」であるということである。

 

教育基本法と関連法案の改正が議論され、道徳教育の導入とその採点が物議を醸している昨今、教育とは?大学とは?そして教師が生徒や学生を採点する行為とは?という教育の基本問題について議論が深まり、さらに大学と社会の関係について論議が及ぶことを期待する。

 

初等中等教育においては次のことが言えるだろう。

 

すでに、近代教育学の父、ルソーがその「エミール」のなかで「教育とは教育される方の権利である。また権利を持つものを甘やかすのが教育ではない」としている。この考え方は現在のいても崩れていない。また日本の書道、剣道などの教育はルソーの教育概念そのものを体現したものである。

 

道徳教育の達成度について生徒を採点してもなんら問題はない。それは本人の習得レベルを点数で示すことであり、それは「本人が参考にする」ためである。しかし、採点自体が他の生徒との比較などの為に使用されることがあれば直ちに採点の正当性は放棄されるべきである。

 

採点は生徒の希望と委託によって行われるべきであり、「自分はどのぐらいお習字が上手くなったか?自分の目標までどのぐらいか?」を生徒本人が判断するためにある。決して、国家のためでも学校の為でも、また合格させるための手段でもない。

 

大学における研究においても深い誤解が浸透している。

 

たとえば、大学において研究倫理が問題になっているが、個別の研究を「評価」し、それを「推進」する機関を有し、上下関係を伴う固定的組織体を保持する限りにおいて、飽食の時代に合意された学問を目指す研究者は研究倫理に反し自らが心に潜めた成果を捏造せざるを得ない。

 

このような研究構造の不整合は教育を含めた大学の存在自体を日常と人生があまりにビジネス的になった中で浅薄に議論され、結論された結果である。

 

国民の多くは大学の研究に「成果」を求めていない。大学には「平穏、品格、偉さ」、仮にそれらに加えて求めているものがあるとすれば「貧乏」であり、すべては学問や研究の本質と合致している。

 

大学と社会との関係は同質ではないということであり、それぞれの役割分担は最大限、尊重されなければならない。「役に立つ研究」は大学にとって自殺行為である。さらに社会と学校虚位区は同質ではない。社会が戦争に生死をかけていても、学校では戦後を見据えて子供たちの教育を行わなければならないから。

 

おわり