民主主義というのは、「民」が「主」だから判断のもとになる情報のうち、もっとも重要な情報が正しく国民に届くことが前提である。それをもとに選挙が行われ代議員が選任されなければ民主主義は成立しない。
しかし、歴史の示すところによると権力は常に情報を隠蔽し、自らの都合の良いように国民を誘導しようとする。それに対してマスメディアが隠蔽された情報を暴くことによって民主主義の成立要件が満足される。
ところが、マスメディア自身が権力を持ち、その権力を保持しようとして情報提供に制限を設けたらどうだろうか?それが現在の日本の姿である。私の分野では、環境と教育・研究にもその傾向が強い。
中学校でアルキメデスの原理を学ぶ。そして日本は技術立国と言われる。でもマスメディアは「北極の氷が融けると海水面が上がる」と報道し、物理学会、中学校校長会はいずれも異議を申し立てない。
「森林は二酸化炭素を吸収する」という報道に対して、林野関係の研究機関は異議を申し立てる代わりに、それを支持して補助金獲得に走った。政府、マスメディア、専門家がすべて権力と化したのである。
その中で、被害を受けたのは国民と子供たちだ。国民は不要な税金を払い、ゴミを増やすために分別をした。そして子供たちはアルキメデスの原理を理解することができず、森を破壊するために紙のリサイクルに精を出した。
「故意の誤報」であっても、その結果、「望ましいことが起こる」なら事実を報道しなくても良いじゃないかという信念は現在のマスメディアに強い。この研究が大切ならデータを偽装して研究費を取って何が悪いというのと同じ論理である。
学者も記者も大切にするのは「事実」である。報道や研究の途中で事実誤認が見いだされば、素直に謝るのが筋である。人間は完全なものではないので、先端を行くには若干の誤りもある。でもそれを正当化することによってさらに事態を悪くする。
学者の側も反省がある。すでに「自らの学問から見た真実を貫くために、世俗の利益を捨てることが出来る学者」というのは20世紀の初頭に絶滅したという。
現在では首相の下に置かれた科学技術に関する戦略会議で決定された学問以外には研究費がほとんど来なくなってきている。実質的な学問の自由が無くなっているのだが、それでも学者は清貧あまんじ、自らの学問に忠実でなければならないのだろう。
マスメディアは事実を報道することによって視聴率を落とし、販売部数を減らすかも知れない。これからはネットの検索エンジンなども主要なマスメディアの権力になっていくだろう。ネットもまた自由を保持できるだろうか?
また、学者は自らの信念を通すことによって研究の道を閉ざされるかも知れない。でも、それは社会における我々の使命なのである。
資源を永続的に使い、温暖化を阻止する為には日本人の生活で使用する物質量を10分の1にはしなければならず、そのためには収入を10分の1にする覚悟がいる。自らの口で述べることと自らが行動していることが離れるなら、指導者ではないだろう。
アメリカ副大統領だったゴア氏が「不都合な真実」という映像と本を提供した。そこに書かれていることは誇張されてはいるが、一応の真実である。でも、自らが月々30万円の電気代を払う家に住み、「おまえたちは劣るのだから我慢せよ」と言っても通じない。
ゴア氏の言動を支持した人の中には日本の指導層やマスメディアの人も入っている。でも、アメリカが世界の二酸化炭素の30%を放出してる原因の一つに、日本製の工業製品をアメリカ人が買っていることによっている。日本がアメリカへの輸出を止めることを覚悟してゴア氏を支持しているのだろうか?
民主主義とは、自らが国民の一人だということを認め、辻褄のあう言動をとれること、そういうものではないと私は思う。
おわり