今日は少し苦いコーヒータイムになる。放送法第三条の話だ。 

 

 第3条の2 放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 

  • 1.     公安及び善良な風俗を害しないこと。
  • 2.     政治的に公平であること。
  • 3.     報道は事実をまげないですること。
  • 4.     意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 実に興味ある法律だ。私は今までこのような放送や新聞(新聞法というのはない)に接したことが無いから、こんな法律があることを知ったのが10年ほど前だが、それ以来、この放送法というのは空文化していると思っていた。

 

 先日、マスメディアの中心的なところにいる方にお会いしたので、この放送法第3条がまだ生きているのかとお聞きしたら、立派に生きていると言われた。それでまたビックリ。 

 

 私が空文化していると思ったのは、

「報道は真実を曲げないですること」

「意見が対立している時には多くの角度から」

という2項目だ。

 

 私の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」にも書いたが、ある時、「ゴミゼロ宣言会社」がニュースで取り上げられた。私はその工場の状態を少し知っていたので、放送局に問い合わせたら「会社の発表通り報道した。事実は確認していない」と返事があった。 

 

 「万博のゴミを分別してリサイクルした」という報道もあった。このときには「事実を確認したか?」という電話での質問にはほとんど答えてもらえなかった。 

 

マスメディアの中心にいる人にお聞きしたら、現在の報道の80%が「発表のまま取材せずに」という事らしい。お答えが無いからわからないが、おそらく万博の事務局が発表したそのままを報道したのだろう。 

 

 それでもテレビはまだ良い方で、新聞はやや常習的だ。特定の新聞とも言えるが、「牛込柳町の鉛中毒事件」の報道はでっち上げだったが、「結果的に鉛の規制ができたのだから正しかった」と釈明した。 

 

「所沢ダイオキシン誤報事件」でも「結果的に社会がダイオキシンについて関心が高まったのだから意味があった」としている。 

 

 つまり、「事実報道は不要で、結果が良ければ誤報や許される」ということだから放送法第3条違反は明らかである。でも新聞法が無いから新聞は真実を報道しなくても良いらしい。 

 

 事実に対する信頼性が無いのだな、と私は思う。 かつて、新聞記者は事実を追って寒い夜を走り回った。でも現在では気骨のある記者を捜す方が無理かも知れない。事実を大切にするというのは報道でも学問でも同じで、仮に自分に固い信念があっても、それと異なる事実がでれば謙虚に反省する・・・それが記者とか学者には求められるのだろう。

 

 放送法に言う「多角的に」というのも実際に守られていない。私の分野では「リサイクルは環境に良いか?」「ダイオキシンは猛毒か?」などがあるが、テレビはリサイクルを進めようとしているし、ダイオキシンは毒性が強いということを前提に放送される。 

 

 ダイオキシンは東大の和田先生、渡辺先生、目白大学の林先生などがかなり前から毒性が低いという論文や書籍を出しておられるのに、まったく一方的な報道しかしない。 

 

 マスメディアは国民にとって貴重な財産だ。法律で定めるより、マスメディア自身で自主規制をして、「事実を報道する」「方向性を持たない」ということを申し合わせたらどうだろうか?

 

 最近、学者の方も研究費を獲得したいので、なにかとフライングが目立つ。功を焦ればそういうことも起こりがちだが、この際、同じ罪をもつ記者と学者で「事実を大切にする」という宣言をしたいものである。

 

おわり