第一章はオオカミから始めたが、第二章は少し技術的な話をする。私たちの頭を覆っている「錯覚」や「幻想」はオオカミ少女だけではなく、最新の技術を担当している人でも同じであることを最初に少し示しておきたいからだ。
話題は「火災」である。火災は実に恐ろしい。ちょっとしたタバコの不始末や石油ストーブをひっくり返しただけで、財産はすべて灰燼に帰し、あるいは愛する家族の命を奪う。
「石油ストーブをひっくり返しただけ」と表現したのは、人間が生活し、動き回る居間だから、人生に一度も蹴躓いたり転んだりしない方が奇妙といえば奇妙だ。でも、一回でもそういうことがあり、そこに石油ストーブがあったら家を失うのだから、やはり「ひっくり返しただけで」と表現するのが良いだろう。
そして、火災になる。轟々と音を立ててグレンの炎を上げる我が家を前にして、すべての夢や今までの楽しかった想い出がすべて消え去り、呆然と立ちつくす。
私は、20年来、この悲惨な火災を無くそうと決意し研究をしてきた。火災が起こる原因はさまざまだが、なんと言っても火災は「燃えるものがあるから」で、木材やプラスチック、繊維、紙が燃えなければ火災はなくなる。
木材やプラスチックは使いたいから、このような「燃えるもの」を「燃えないようにしたい!」これが私の願いだった。これを難燃化、不燃化という。
すでに、難燃化の技術は古くエジプト時代からある。でも、近代科学がそのメスを入れたのは19世紀初頭のゲイ・リュサックの研究が最初で、ホウ素、イオウ、リンなどが燃焼を阻害する元素として見つかっている。
ところで、「火事と喧嘩は江戸の花」というように、火事に対する人間の思いは民族や時代と共に変わってきた。
たとえばアイヌはある家の人が死ぬと、悪霊という意味もあるし衛生上の理由もあって、その家を燃やして新しく建てた。アイヌには文字がないが、さまざまな記録が残っていてそれがわかる。アイヌの文化はとても印象的だ。
かつての火事は大火でもなければ家から飛び出せば良かったが、現代のように高度に発達した社会では火災は大変に恐ろしいもので、高層ビルが火災になれば多くの人が犠牲になる。タワーリング・インフェルノの世界である。
私たちが高度な社会から原始の社会に戻る可能性は低いだろう。だから、もしこの社会から火事というものが無くなれば私たちのストレスはずいぶん減ると思う。
プラスチックや紙、布などのものはよく燃える。そんな、「燃えるもの」を「燃えないようにする」ことはできるだろうか? すでに燃える材料に「添加物」を入れて燃えにくくする技術はある。でもかなり無理をするので一酸化炭素がでる。
現代のように住宅が密閉化すると火よりも一酸化炭素が怖い。実際、日本では「焼かれて死ぬ」犠牲者より「一酸化炭素で中毒死してから焼かれる」犠牲者が多くなっている。
研究はなかなか辛抱と根気のいる研究である。来る日も来る日も、新しい材料を作っては実験をするのだが、火をつけるまでうまくいったかはわからない。そして、
「今日もダメか、全部、燃えた」
という日々の繰り返しである。
研究というのは「うまく行った時が最後の日」だからである。
(燃焼実験)
私は難燃の研究を始めて8年ほどたった時だったと記憶しているが、「もしかすると目の前にあるプラスチックは本来、燃えないのかも知れない」と思うようになった。
もちろん、プラスチックはよく燃えるものであるし、なぜ燃えるかという理論も確立している。熱でプラスチックが分解し、その分解生成物が気相で酸素と反応して燃焼を継続する。それがプラスチックの燃焼メカニズムであり、私も講義でそう教えてきた。
でもなんとなく釈然としなかった。本当はプラスチックも木材も燃えないのだが、何か特別な条件になると燃えるのではないか?その「特別な条件」というのが「普通の世の中」なので燃えるのかも知れないと考えるようになったのである。
ものが燃える、燃えないというのはそれほど単純ではない。かつて時々、救急車の中で酸素ボンベに取り付けられた銅の配管が激しく燃える事故があった。
銅や鉄はプラスチックと同じく「還元された物質」なので「可燃物」である。しかし現実的には銅は空気中、つまり20.9%の酸素の中では燃えない。酸素ボンベ、つまり100%の酸素なら銅も燃える。それで事故になるのでモネル合金を使うようになった。
もう一つ、教訓的な話がある。ある時、宇宙に行くのに宇宙飛行士の生活するキャビンに空気を入れる必要はない。人間には酸素が必要なのだからと考えてキャビンの中の酸素濃度を高くして訓練していた。
ある時、キャビンの中に何かの着火源があったのだろう。地上訓練中の宇宙船が火災になり宇宙飛行士が3人亡くなった。「可燃物」とは思っていなかったものに火がついたのである。
私たちが暗黙の内に「これは燃える、これは燃えない」と判断するのは実は「大気圧の空気中なら」という限定条件が付いている。だから錯覚するのである。
そうこうしているうちに、つい先日、「燃えないプラスチックはあり得る」ということが頭をよぎり、実験をした。材料はプラスチックの中でももっとも燃え易い材料として知られているポリエチレン。難燃剤も何も含んでいない純粋なポリエチレン。それをバーナーで加熱してもまったく火がつかないのである。
(燃えないポリエチレン)
ポリエチレンの燃焼を研究してきた人にとってはビックリするだろう。なにも入れないポリエチレンが燃えない?!
人間がオオカミに育てられるとオオカミと思う。自分の人生で一度も人間を見ていないからだ。生まれてこの方、プラスチックは燃えるものと思っていた。事実、目の前のプラスチックはいつも燃える。
でも「プラスチックが燃える」というのは真実ではない。オオカミに育てられたからオオカミ、ポリエチレンは普通には燃えるから燃える・・・という訳ではないのである。
我々が目で見て、経験したものは対象物がそのまま見えているのではなく、我々の目のレンズを通り、頭の中に作った特別の像に過ぎない。
研究というのは、今、自分の頭にある現象や物を疑うことである。当たり前と思っていたことを疑う。そこに新しい発見がある。
「幸運の鍵」の第二章にやや科学的でややこしい話題を取り上げたのは、「火事」という現象があまりに日常的であるが故に、「今までの経験」というプリズムで「プラスチックは燃える」という概念が作り上げられている例を示したかったからである。
事実をそのまま見ることができないプリズムは、私たちのあらゆる面に存在する。
つづく