人生の時間は三つある。

 

 一つは人間の時間、二つは動物の時間、そして三つ目はそれを維持する為の時間である。

 

「人間の時間」というのは、人間としての私たちが、頭を使い、趣味で楽しみ、そして愛する人と過ごす時間である。もちろん、人間はそのために生きる。

 

二番目の、「動物の時間」とは、食べ、寝て、お化粧する、そんな時間だ。無駄な時間と言えば言えるし、それこそが本当の時間であるとも思える。多くの動物は食べて寝る人生を送るからである。

 

そして最後に、生活するためのお金を稼ぐ時間である。これも、多くの動物が餌を採ることだけに一日を過ごし、それだけで一生を終わることを考えると人間にとっても一番大切な時間かも知れない。

 

事実、歴史的には、人間も長く生活だけの時間を過ごしてきたが、技術の進歩によって近世以来、人間の時間をたっぷりとることができるようになった。

 

 かつて、貴族は第三の時間はほとんど取らなかった。所有する土地から入ってくるお金は執事が管理し、本人の時間が取られることは少なかった。でも、庶民は働かなければならない。そのために会社に勤め、あるいは自営業を営む。

 

 現代。

 

 我々は、朝、9時に出勤し、呼吸を整えて仕事に取りかかる。そしてやがて一日の仕事が終わり、午後5時に会社を後にする。健全で正しい生活だ。日本国憲法には「勤労の義務」という条文がある。国民等しく働いて富を得、それを分配する。働かない人がいるとその人が富を生まないので健全な社会にはならない。

 

 気になることがある。それは「4時半からそわそわする」ことである。

 

 定時が近づくと、それなりにその日の仕事にケリをつけなければならない。そして5時になるとできるだけ早く仕事を止めて家路につかなければならない。やることは多くある。そしてやっと第三の「稼ぐために雇われた時間」から第一の「人間としての自分の時間」に戻ることができるからである。

 

 でも、それは本当だろうか?

 

 人生の時間は3つに分かれる。人間は食事を取らなければならないが、食事を取る時間は「人間の時間」ではないと断言するのも極端な話である。

 

 やれフォークの持ち方だの、スープの飲み方だのとうるさいフランス料理の作法の中に、質の違う、どちらかというと本質的に見える次のような作法がある。

 

 彼女とのデートにはフランス料理が合う。ただ駅で待ち合わせて、どこかに行くと言ってもそれほどデートの場所が多いわけではない。その点、食事は素晴らしい。レストランは話が弾み、彼女との楽しい時を過ごすのに最高だ。

 

 ということは彼女とレストランで食事をするということは、決して「食事をする」ということではなく、主たる目的は「彼女との楽しい時を過ごすこと」だ。それを何らかの形で作法にしなければならない。

 

 そこで、料理のお皿が置かれたら、すぐ手を出してはいけない。軽く「これは・・・産ではないかな?」などと話しながらおもむろに手を動かし始めなければならない。静かに上品に少しずつ味わい、そして、それがどんなに美味しいステーキでも決してお皿の上の料理を全部食べてはいけない。

 

 残すのである。

 

 その理由はいとも簡単だ。「私はこのレストランに食事に来たのではありません。あなたとお話がしたくて来たのです。」というメッセージを「残す」という形で彼女にそっと送る。

 

 かくして、レストランでの食事は「人間が生存するのに必要な動物の時間」から「人間が人間として愛する人と楽しい時を過ごす時間」に変換されるのだ。それだけ、人間としての寿命が延びる。

 

 料理が好きで、食事の時間も好きだという人はさらに人間の時間が拡大する。食事の時ばかりでなく、料理を作るときすら第一の「人間の時間」に組み入れられるからだ。

 

 さて、この食事の話を参考にして、最初の定時に帰る話に戻ることにしよう。

 

 江戸の末期、日本に来たスイスの使節団長アンベールは日本人の労働について次のような感想を書き残している。

 

「若干の大商人だけが、莫大な富も持っているのに更に金儲けだけに夢中になっている。人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむために生きている。彼らの労働はそれ自体が彼らの人生であり、働くことに情熱をかけている。

 

彼らは仕事をする時間を決めている訳ではなく、できたものが満足できればそれで一日の仕事を止める。」(渡辺京二さんの「逝きし日の面影」から少し書き直した。)

 

 日本の庶民には「働かされる」という意識はなかった。自分の仕事はあくまで自分の仕事であり、そのお駄賃は「仕事の後にもらうもの」であった。つまり最初からマネーを期待して労働するのではなく、労働は自分のものであり、それをすることによって後でお駄賃をもらうという概念だったのである。

 

 それに対して、近代「労働契約」の下で働くヨーロッパの労働者はどうだっただろうか?ちょうど、同じ時期、19世紀の半ばの労働者の生活をエンゲルスが描写している。

 

貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。

貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に披露してしまうまで酷使される。」

 

 でもこれは「日本とヨーロッパ」の差ではない。それはヨーロッパ近代資本主義が誕生する前、労働契約が生み出される前のヨーロッパをエンゲルスが描く。

 

 「労働者は全く快適な生活を楽しみながら、のんびりと暮らし、極めて信心深くかつまじめに、正直で静かな生活をおくった。かれらの物質的な地位は、その後継者の地位よりもはるかによかった。彼らは過度に働く必要はなく、彼らはしたいと思った事以上はしなかったが、それでも必要なだけは手に入れていた。」

 

 日本の江戸とまったく同じ生活であることに驚く。

 

 つまり、「労働の時間」を「人間の時間」から奪ったのは、近代ヨーロッパが編み出した「労働契約」だったのである。それ以後、私たちはある錯覚に陥っている。

 

「勤めるということはお金で自分の時間を売ることだ」(これは錯覚です!)

 

 私たちはこの錯覚に捕らわれて一日、約8時間の時間を損失し、実質寿命はそれだけ短くなり、ストレスは増大した。「労働契約」という幻想、その影響は計り知れない。

 

 9時から5時までは自分の時間が買われていると錯覚する。だから「会社にいる時間は損だ」「休みは絶対に会社に行ってはいけない」ということになる。まさに工業化以後のヨーロッパ労働者と同じ意識の中にいる。

 

 日本の経営者も同じ錯覚をしている。従業員を「雇っている」と錯覚する。賃金を払うのでそれで労働者の出資を買ったと錯覚する。でもこれはわずか150年前にできた一時的錯覚に過ぎない。

 

 このことについて、少し参考になる経験を書いておきたい。

 

 1999年、私はある研究の委託を受けていた。その年の初めから委託を受ける予定で話を進めていたら、私に委託する先、それは国の機関だったが、ある時、工業所有権について次のように言ってきた。

 

「この研究で生まれた特許はすべて私たちの所有になります。」

 

 これにビックリした私は次のように訂正を求めた。

 

「私自身は別の理由で特許をいつも放棄しているから問題はありませんが、それはおかしいのではないか。そちらが研究を私に委託するということは、私の知力が研究を成功させるためには必要だということと思う。

 

 ところが私にはお金がない。だからあなたがお金を出して、私が知力を出す。5;5ではないか。それなのになぜそちらの特許になるのか?」

 

 この正面からの問いに彼は答えることができず、「そういう規則になっていますから」と言った。もっとも研究が開始された1999年の10月には制度が変わり、今度は発明をした人が特許権を持つようになった。

 

 物事は「お金」がすべてではない。それを錯覚したのが近代ヨーロッパの諸制度だった。その一つに特許権があり、また労働契約があった。いや、もう少し厳密に言うと、特許権も労働契約もその発生当時はもっとバランスのとれたものだったが、生半可な知識で自分に有利に変えてきた結果、変質したというのが正しいだろう。

 

 労働とは社会に価値を生み出すものである。もちろん、労働者は自分一人で細々と働き、生計を立てることができる。でも、研究者としての私は知力があっても金力がない。それと同様に労働者は体力があっても金力がない。

 

 だから、労働とは社会に一定の価値を生み出すために、労働者が筋力を出し、資本家が金力を出す。対等なのである。従って、どちらが「雇っている、雇われている」という関係はない。

 

 現在の雇用関係に基づく日常的な業務の形には間違いが多い。たとえば「出張命令」なるものがある。これもまた錯覚を増大する。本来は、もちろん「出張依頼」を雇い主が出して、被雇用者が同意すれば出張ということになる。あくまで対等だ。

 

 つまり近代労働契約や会社の組織体制が「人間の時間を労働で奪っている」のであって、それはシステムに問題があるのではなく、長い力関係でできあがった錯覚がそうしている。

 

 ここでまた一つの小話を入れたい。

 

 ある小学校6年生が先生に、

「君は努力型の人間ではないね」

と言われた。言う方の先生も先生と思うが、恐ろしい方に展開する。

 

 その小学生は先生にそう言われて、それまで自分は努力する人になりたいと望んでいたのに、「先生がそう言うなら、そうなってやる」と思うようになった。人は「悪いことなら悪くなってやろうじゃないか」という方向に行きがちである。

 

 現代の労働契約は錯覚のもとで運用されている。被雇用者の労働を「価値にあるもの」とせず、お金だけに価値を見いだした錯覚である。それはお金は数値的尺度で測定できるが、労働の価値は測定できないという便宜的なことでそうなっただけである。

 

 つまり次のように考えるべきである。

 

 企業というのは、資本家が建物と機械をそろえ、労働者が筋力や判断力を提供する。価値の計算はそのときにすれば良いが、お互いに現物を出資している。そして資本家が売り上げのうちから労働者に賃金を渡すのではなく、労働者もまた価値を生み出す「筋力や判断力」という資本を提供しているのだから、収益の分け前をもらうだけである。

 

 このように考えると、労働は自分のものになる。つまり江戸時代の職人や工業化以前のヨーロッパの農民と同じ価値の時間を過ごすことができる。

 

技術も乏しく、社会体制も発達していなかったヨーロッパ。そのときに、労働者は「彼らは過度に働く必要はなく、彼らはしたいと思った事以上はしなかったが、それでも必要なだけは手に入れていた。」という状態にあった。

 

 そして「全く快適な生活を楽しみながら、のんびりと暮らし、極めて信心深くかつまじめに、正直で静かな生活をおくった。」のである。私たちはもちろん、さらに技術や社会の発達した時代に生きている。労働契約の錯覚さえ取り去れば彼らより素晴らしい生活を送ることができるのである。

 

 今から200年前にできていたことを今、できないはずはない。

 

 自分の筋力は判断力を提供し、自らの労働を行えば4時半にそわそわすることはない。5時にサッと帰ることもない。5時以前も、5時以後も自分の人生にとって同じ価値の時間となる。

 

また休日に出勤しても「損をした」という感じはしない。すべてこれまでの錯覚によるものである。

 

 労働を提供すること、筋力や判断力を発揮することは、お金を提供するより上位にある。それだけを社会的に合意すれば、まず「人生の環境学」の第一歩を踏み出すことができる。

 

 自分が人生でしたいことが見え、それを実際に行動できるようになると、必要なものはそれほど多くない。まさに近代工業化以前のヨーロッパ庶民の感覚を持てるのである。だから環境学の第一歩は「会社にいても損をした感じがしない」という状態を作ることだ。

 

つづく