オオカミは独特の習慣を持っていて、人間の赤ちゃんや子供が迷って森の中に入ると、その迷った子どもを自分のその中に入れて、自分の子供と同じように育てる。
これはオオカミの縄張りや夫婦の関係と深く関係している。オオカミは一組の夫婦が約10キロ四方の縄張りを持っている。その縄張りは大人の夫婦が単位になり、子供、未婚の妹などで一緒に生活する。
人間と違いオオカミの夫婦はとても仲が良く、ひとたび結婚したらけっして離婚しない。結婚したら離婚する事はないということを不思議に思う人もいる。でも、結婚して離婚する方が奇妙である。
結婚というのは「一生、一緒に生活する」という誓いである。もちろん、動物というもの、気も変わるし環境も変化する。それでも「絆」というのは変えるものではない。それが「運命」というものだ。
与えられた定めに従う。
人間はある時に頭にすり込まれた固定観念で動く。目に見えるもの、肌で感じる物の多くが幻である。それに幻惑されて離婚する。これもテーマもこのシリーズで次第にその姿を現してくるだろう。
ところで、そんな夫婦愛の深いオオカミだが敵が多い中で、縄張りを守るのは大変に難しい。時に、非常に強力な敵が縄張りを奪いに来ることがある。そんな時には父親のオオカミが立ち向かい、母親は子供たちを急いで巣に隠す。
幸い、父親オオカミが勝てば良いが、負ける時もあり、それは一家の全滅を意味する。母親が絶望的な戦いをしている間、かろうじて巣から逃げ出した子供のオオカミが隣の縄張りに逃げ込む。
隣の縄張りを守っているオオカミは両親を失った子供のオオカミを引取り我が子のように育てる。これが、狼の夫婦関係、縄張りの守り方、敵との戦い方、そして一家が全滅したときの種の守り方である。
オオカミの気持ちや判断力などを軽々しく人間の尺度で判断するのは危険で、慎重に検討しなければならないが、ともかくオオカミは「人の子を育てる」という習性を持っているので、オオカミは森で道に迷った人間の赤ちゃんも我が子同然に育ててくれる。
だから、昔からオオカミに育てられた「オオカミ少年」「オオカミ少女」が知られている。
有名なこの写真の少女は赤ちゃんの頃、オオカミに育てられ後に保護された。食事を与えられたこの少女は手を使うことなく、育てられた狼に習ったように直接、口をつけて食べる。
人間が手を使って食べるのは最初からそうすることを知っているのではなく、習って覚えるものである。
ともかく、かわいそうなこの少女は二十歳を待たずに亡くなったが、最後まで自分はオオカミであり人間ではないという意識から抜けることが出来なかったと記録されている。
でも、奇妙と言えば、奇妙である。自分の体つきを見たり少しずつでも話をすれば、自分がオオカミではなく人間であるということに気づくように思われる。でも、実際には、人間の頭脳はそれほど柔軟ではない。最初に自分の頭の中に入ってしまったものは容易に取り除くことができない。
この手の話は、カモの赤ちゃんが生まれて最初に動いているものを母親と思うという有名な話もあるように、珍しいものではない。だからつい「そんなものだ」と受け取ってしまうが、実に奇妙である。
赤ちゃんの時には形の区別も付かないかも知れない。でも人間が人間としての知恵を持っている一つの理由は「頭の容積が大きく、大脳皮質のシワが多くて、後天的な知識を得ることができる」ことにある。それなら「物心」が付けば自分がオオカミではなく、人間であることに気がつくはずだからである。
でも我々の頭脳は三段階の情報でできている。この話はまた別の機会に詳しく説明をする予定だが、第一にDNA、つまり遺伝子であり、これは親からもらった情報である。
第二に「ミーム」という情報がある。これは「日本人の感性」などという形で発言するが、だいたい200年間ぐらいの歴史が自分の感性や判断を形成している。
そして最後に生まれてから習ってきた「知識」である。DNA、ミーム、そして知識が私たちの理解や判断の基礎になっている。この少女は少なくともDNAは人間、ミームは半分オオカミ、そして知識は数年で人間の知恵を獲得するはずである。
でも、実際にはそれができない。
ここでは、まずは「オオカミ少女は自分が人間と思うことができない」という事実をそのまま受け止めたい。それは「目の前の事実」と「目から脳に入って脳に像を結ぶもの」が違うことを示しているからである。
オオカミ少女が人間なのにオオカミと信じていることと同じように考えれば、自分は人間だろうか?という疑問がわく。そして、自分は日本人だろうか?自分は今、自分がそうだと思っているような人間だろうか?と続く。
自分が自分であるという確信はない。もし自分が自分ならオオカミ少女はオオカミである。
つづく