イレーネ・キュリーと原子力



 キュリー夫人、つまりマリー・キュリーが
「1899年1月5日、イレーネの歯は十五本になった」
と日記に記した長女イレーネ・キュリーもやがて成長し、フレデリック・ジュリオと結婚した。

 科学の世界で最大の名家となった「キュリー」の名を継いでジュリオ=キュリーとなったこの学者も、そしてマリーの血を引くイレーネも、ともに優秀な科学者であった。

 結婚した二人はマリー・キュリーとピエールの発見したポロニウムという放射性元素から出るα線という放射線を研究していた。このα線をホウ素やアルミニウムの薄い膜に照射をするとポロニウムを取り除いたあとも暫く放射線がホウ素やアルミニウムから出るのを観測した。

 親子二代にわたって粘り強く思慮深かったこの科学者はホウ素とアルミニウムを慎重に分析し、その中にあるはずもない元素、放射性の窒素やリンができているのを発見したのである。

 かつてラジウムの発見でピエール・キュリーとマリー・キュリーが夫婦でノーベル化学賞を受賞し、その娘イレーネ・キュリーとジュリオ=キュリーが再び夫婦でノーベル化学賞を受賞した。受賞理由は「人工放射能の発見」である。1935年のことだった。

 キュリー夫人は人類ではじめて元素の崩壊を発見し、それが宇宙のエネルギーや太陽がなぜ光るかが説明できるようになり、X線写真などの新しい医療にも使われるようになった。

 でも、ジュリオ=キュリーはすでにこの人工放射線の発見が膨大なエネルギーの放出につながることを知っていたので、1935年にはノーベル賞受賞講演で、
「これは一種の核変換であり、もしそれが物質全体に連鎖的に拡がるなら、膨大なエネルギーが放出されるだろうし、その過程こそ科学者たちが実現に努力するであろうが、充分な用心が必要だ。」
と警告している。

 ジュリオはフランスがナチに占領されている間は地下に潜り地下活動を続けフランス共産党員にもなった。そして、戦後、ジュリオは原子力庁長官になりフランスの原子力政策を進めた。ジュリオは原子兵器の生産と使用に反対して1950年3月19日、「原子兵器の絶対禁止」を謳ったストックフォルム・アピールを提案、その年の4月28日、すでに原子爆弾開発を決めていたフランス政府によって原子力庁長官の座を追われた。

 「20世紀初頭にアンリ・ベックレル、ピエールとマリー・キュリーがはじめた一連の尊敬すべき科学的発見が、最後には水素爆弾による破壊の脅威となって人類の上にふりかざされたことは、すべての人々、特に科学者にとって極めて重要な警告をなすものです。」

 ドイツからアメリカに亡命していた物理学者シラードが、相対性原理の発見者アインシュタインと原子力発電の父、エンリコ・フェルミに送った書簡の中で、こう述べている。

 著者も科学者の一人であるが、自分が進めている研究が果たして人類にどのような影響を与えるのかは分からない。キュリー夫人が最初にラジウムに遭遇したとき、それが「何であるか」すら分からない。原子力というもの自体を人類は知らないのだから、当然である。

 そして、原子力の発見によって人類は宇宙のエネルギーのほとんどが原子力エネルギーであり、太陽をはじめ空に輝く星の光もすべて原子力の光であることを知る。そのこと自体は人間の知識を増やし、判断力を高める。でも、同時に原子爆弾を生む。

 キュリー夫人の発見は正しかったのか?という質問は意味がない。発見は発見してみなければ「何もない」ので、それが正しいかどうかということすらない。でも、人類にとって原子力を知ってしまったことは良かったか?という問いはある。キュリーから45年後、広島・長崎に原子爆弾が投下され、多くの人が悲惨な死を遂げたことを考えると、やはりキュリー夫人の発見の評価は難しい。

 人間は知識を得ることに熱心だが、それが人間にとってどのような意味を持つのかを考えることは少ない。

おわり

(ジュリオ=キュリーの表記に不十分な点がありました。読者の方のご指摘で修正しました。)