-毎日がめでたい-
このところ良いことが続く。助手の先生と学生がヨーロッパの学会で発表したら、賞をいただいて帰ってきた。私も、あるところから受賞の推薦をしてあげると言われた。賞をもらうのがそれほど良いことかどうかは判らないが、ともかくめでたいことでもある。
そういえば、私も数年前には大きな手術をしたけれど、このところは元気だ。学生や親しい人も、また家族もみんななんとかやっているようだ。ご飯も美味しく食べているし、適当に仕事にも追われている。懐かしい人とも時々、お会いすることもできる。相変わらず、夜はよく眠れないが、そのおかげでNHKの“ラジオ深夜便”を楽しむこともできる。
毎日がめでたい。辛いこともあるけれど、まったく無ければまた寂しいだろう。新幹線で名古屋と東京を往復する回数がもう少し減るか、新幹線の中でビールでも飲みながらウトウトする時間が欲しいといえば欲しいが、それもつまらない希望のようでもある。
前に勤めていた大学の先生がギリシャの歴史の本をお書きになり、その本をいただいた。実に面白い本で、朝、家を出て地下鉄の駅まで行く10分間、歩きながら二宮尊徳のようにして読む。交通事故に遭わないかと少し心配だが、実に面白い。通勤時間がまったく苦にならないほど面白い。
でも、ふと思うことがある。人類が誕生してからごく最近まで、人間というのは毎日がめでたかったのではないか?病気になることもあるし、天変地異や飢饉もあっただろう。いつでも歴史というものは戦争とか王様ばかりを表に出すが、もし「平凡な生活」というものを浮き彫りにしたら、毎日がめでたかったのではないだろうか?
毎朝、起きて顔を洗い、野良仕事にでたり、ご飯を食べたり、時にはお祭りではしゃいだりしたに相違ない。そんな記録は山ほどある。
……イライザ・シッドモア。1884年。
「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は楽しそうに砂の上で転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」
……リンダウ。長崎近郊の農家にて。1858年。
「火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子が慌てて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰をかけるように勧め、母親は丁寧に挨拶をして、お茶を出してくれる。家族全員が私の周りに集まり、子供っぽい好奇心で私をジロジロ見るのだった。……幾つかのボタンを与えると、子供達はすっかり喜ぶのだった。「大変ありがとう」と皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて可愛い頭を下げて優しくほほえむのだったが、社会の下層階級の中でそんな態度に出会うのは、全くの驚きだった。私が遠ざかって行くと、道のはずれまで送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ「さようなら、また明日」と私に叫んでいる。あの友情のこもった声が聞こえるのである」
江戸末期、日本はどこもかしこも、毎日がめでたかった。
……ハリス駐日アメリカ大使。1857年。
「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者も居ない。―――これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所為であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
それから150年。日本人の所得は当時の何100倍にもなった。お金が増え、ものが増え、そして毎日は暗く、不幸になった。自殺者はウナギ登りであり、山手線に乗ると、しかめっ面をした若い女性が化粧をし、疲れ切っているのに足早に歩くサラリーマンにあふれている。信じられない風景だ。
家庭では子供が勉強に追いまくられ、お母さんはどなり、独身者は閉じこもり、主婦は自律神経失調症に苦しむ。何のために経済発展?何のための家庭??
なぜ、私たちは豊かになったのに、なぜ毎日が辛くなったのだろうか?なぜ、毎日がおめでたくないのだろうか?
昔、人生が幸福で、今、辛いのは現代の私たちの頭の幻想があまりに強いからだと思う。人間の頭には欠陥があり、事実でもないものを繰り返し聞くと事実と錯覚してしまう。他人のものが欲しい、何かを手に入れれば幸福になる・・・全部、おそらく幻想だ。
ものを欲しがらず、自分のできる範囲で誠実に生きれば楽しくてしょうがない人生なのに、なにか「人より良くなろう」「人生、夢を持たなければ幸福ではない」などという幻想にとりつかれる。だから、対人関係もうまくいかない。自分が良くなろうとしているのだから他人はイヤだろう。
自分の身の丈で生きればよい、自分の時間を過ごせばよい、自分の考えが及ばなければそれでよい、人間とは複雑な物で、お金持ちほど不幸だし、能力があるほど時間は自分のものにならない。自分は自分のできることだけをすればよい。そしてその結果、どうなってもよいじゃないか。死なない限り。
人付き合いは煩わしいが、周りに誰もいないと寂しい。忙しいのはイヤだが暇なのも辛い・・・それが人間だからそんな自分をそのまま受け入れたい。そうすればシッドモアやリンダウがあった日本人にもう一度、帰ることができるだろう。
毎日がめでたい。夢も持たず、他人とも比較せず、自分の時間を楽しむことができたら。
おわり