-持続性文化の王様-

 どちらかというと小さめのそのコタンのはずれに少し小さめだが頑丈な丸太で組み上がっているチセが見える。寒風吹きすさむ外界との間には藁や笹がびっしりと張り巡らされてこの厳しい蝦夷の地の冬から乳飲み子を守っているのはこの小さいチセなのだが、中は驚くほど暖かい。真ん中に置かれた囲炉裏の上にサケがぶら下がっている。今年の秋、川上を真っ黒にするほど集団で遡上してきたサケの一群が獲物となり、本来、川上に向けているはずの頭を下にしているのである。

 囲炉裏では薪が焚かれる。煙の出ない炭ではサケはこのようにはならない。絶えることのないもうもうたる煙が囲炉裏から立ち上り、新鮮なサケを煙に包み、やがてそれは厳しい冬を乗り切る保存食となるのである。煙はサケを薫製にし天井の藁を殺菌し、そしてチセの上についている吐き出し口から外に出る。

 アイヌはすべての食料にカムイが宿ると考えて、食料に供した後には丁重に葬り次の収穫を願う。でもサケは少し取り扱いが違う。秋になって川を遡上してくる“一番サケ”は時にカムイが宿るとして敬われることもあるが、多くのサケは単なる食料としての役目を果たす。

 そう言えば。アイヌの文化の中で収穫した動物を単なる食料とするものとしてシカも入れて良いと東京大学の北海文化研究常呂実習施設の宇田川先生はおっしゃる。シカは繁殖性の強い動物なので、あれほど自然を敬い動物を大切にするアイヌでも形として尊敬の念を払わなかったのではないか・・・と私は思った。

 チセは暖かい。それは単にチセが藁や笹の外壁に守られて暖かいとか、外の風を完璧に防いでいるというだけではない。チセの全体の作りや囲炉裏、そして天井から吊されたサケなどその全てがそこに住む人に安心感を与えるのだ。それは自然に対する深い造詣が醸し出しているものである。

 やがてこのサケは順番に赤い食器の上に乗り、冬を越す人たちのお腹を満たす。アイヌの冬は現代の人間に較べて毎日の生活に使う物質は極端にまで少ない。そして蝦夷地の厳冬はさらにアイヌの人たちに試練を加える。でも、囲炉裏を取り巻く顔は炎の色に照らされてほんのりと紅く、どの顔も笑っている。そのような顔は現代の日本人にはほとんど見ることができない昔、昔の幸せに満ちた人間の顔なのである。

 サケの吊されたこのチセには一年中、煙が充満し、それは現代の日本流に言うとダイオキシンの製造工場のようなものであるが、その住人がダイオキシンで倒れたという記録はない。もちろん煙に若干の殺菌作用があるのだから厳密に分析すれば人間にも有害なものが含まれているに違いない。でも人間は大昔から何千年もの間、縦穴住居に住み火を絶やすことは無かった。それでも「焚き火をするとダイオキシンで死ぬ」という伝承は無い。薫製になり一部は焦げたサケを食べるとガンになるという言い伝えもない。そしてアイヌの人の平均寿命は長かった。

 もし現代の新聞記者がアイヌのチヌを訪れ、それを記事にしたらこうなるだろう・・・
「部屋中に焚き火からの煙が立ちこめ、私は息も詰まるようだった。この無知な人たちは焚き火からダイオキシンが出ることも、魚を焦がすと発ガン性物質ができることも知らない。薪を使えば煙が出るので殺菌するなどと暢気なことを言っている。殺菌するのだから自分の体を痛めているのに。そして食糧といえばこの寒い冬なのに吊されたサケが10匹ほどで他はわずかなものしか持っていないらしい。それでこの厳しい冬を耐えようとしているのだから狂気の沙汰だ。しかも家は粗末な藁でできていて中には一つだけのしきりしかない!なんということか!」

 記者は記事を書き上げるとそれを携帯電話に打ってメールを急いだ。締め切りが近づいていて、もし少しでも遅れたらこっぴどく怒られる。記者は自分から見るとこの異文化をできるだけ衝撃的に書かなければならない。こきおろさなければならないと思っていた。

 記者は締め切りに間に合わせようと必死になり、その眥(まなじり)は上がり、眉間(みけん)は皺となり、そして額(ひたい)には脂汗が浸みていた。チヌの中で暢気にその様子を見ているアイヌの人の頬は笑っている。豊かさと親しみに満ちた囲炉裏と入り口付近で佇む記者の間には超えられない溝が横たわっている。

 記者はアイヌが無知であると信じていた。部屋も貧しい、持っているものも古い・・・だから無知と断言する。でも本当は記者の方が無知なのだ。ただアイヌの持っているのは知恵であり、記者の方は「人生を捨てて効率的に時を過ごす」ための知識を持っているに過ぎない。

 やがて記者の社会は限りない拡大と効率化の中で馬車馬のように働き、滅びていくだろう。その時にもチヌの天井からは暖かい煙が立ち上っていることだろう。もし、記者の文化が力ずくでこの素晴らしい知恵の文化を滅ぼさないとすればだが・・・

(参考1) コタン(集落)、チセ(住居)、カムイ(神)・・・アイヌ語
(参考2) 「ダイオキシンは毒」「魚の焦げはガンになる」というのは間違いだった。
この世紀の誤報事件は新聞が記事の誤りを謝罪していないので今でも誤解している人が多い。

(おわり)